「「格差」問題を語る際の4つの注意」という記事の文言では十分明確に表現していなかったことを(私の念頭には常に置かれていることだが)一言付け加える。
(本稿は上記の記事に圭人氏から頂いたコメントに対する回答の一部にもなっているが、差し当たり、こうした形で記録しておく。)
私は所得配分を「平等」にすれば、経済の「競争力が高まる」と言っているわけではなく、
「所得配分の平等さ」と「企業の国際的な競争力」の間には(正の相関であれ負の相関であれ)基本的には
明確な相関関係はないということである(注)。
***********************
(注)但し、生産性が低いために「国内の需要を満たせないタイプの不況」になっておらず、一国の経済が一国内だけで完結している場合には、所得配分が平等である方が経済活動は相対的に活発化する。一般に、限界消費性向――1単位増加した所得のうち、どれだけが消費されるかを示す値――は所得が高いほど小さく、所得が低いほど大きいので、国内市場の需要が大きくなるからである。
複数地域からなる経済関係(例えば、国際化やグローバル化した経済)では、この効果はやや限定的になるが、一つの政治的単位の経済活動を相対的に安定した状態に保つには所得配分は平等に近い方が適切だとは言える。これは、例えば、完全に輸出に頼りきった経済よりは、「自分たちである程度コントロールしやすい国内市場」も、ある程度頼れる状態にしておいた方が望ましい、ということである。
***********************
例えば、フィンランドやスウェーデンのような「高福祉国家」における近年の失業率の高さも、所得配分の仕方の問題というよりも次の点が決定的に重要である。
すなわち、これらの国では
輸出が比較的大きなウェイトを占める経済構造になっているのだが、それに対して、
最近数年間に急激にユーロやクローナの対ドルレートが増価したことによって、「製品を生産しても外国で売れなくなった」ことである。つまり、今までと同じように製品を作っていても、価格が高くなってしまうので他国の人々があまり買ってくれないため、需要と供給のミスマッチが生じている(このミスマッチこそ「不況」と呼ばれるものである)ということだ。
敢えて図式化すればこういうことだ。
「通貨高→外国での売値高騰→作ったものが売れない→生産規模縮小→企業で人が余る→失業」
(もちろん、人が余ったとき必ず失業になるわけではない。ワークシェアリングや給与の切り下げなどの手段で切り抜けられることがあるから。)
例えば、ここで通貨が高くなることの原因を福祉政策に求めることができるなら、私の判断も誤ったことになるだろう。しかし、私の想像力が及ぶ限りでは、
各国の福祉政策よりも、各国の金融政策や中国・インドなど急速に経済活動が活発化しつつある地域やアメリカのような経済活動の規模が飛びぬけて大きい地域の経済の動向の方が、どう考えても大きな影響を持っているように思える。逆に言えば、それを覆すほど福祉政策が為替レートに影響するとは到底思えない。
もし、これらがそれほど深く関わっているなら、通過のレートが乱高下することはないか、制度の改訂する時期と連動してレートが変るはずだ。しかし、レートは時に大きく変動するし、各国の福祉立法が改訂される時期に特段の変化が実際に起こっているわけでもない。
余談になるが、最近の日本の「景気回復」も、こうしたユーロ高によってヨーロッパ各国企業の競争力が低下したことと、アメリカとの金利差によってドル高円安になっていることによって、相対的に日本企業の競争力が高まったことが大きな要因であろう。2005年に日本車が世界中で売れまくったのも、こういう文脈の中に置いて理解されるべきであろう。
したがって、スウェーデンやフィンランドの失業率や「システムの破綻と言われること」も、これらの国の福祉政策や社会保障政策とは深い相関関係はない。むしろ、
深い関係がないことを、いかにもそれらしく結び付ける議論があまりにも多いことを憂慮している今日この頃なのだ(笑)。←またもや「きっこの日記」風
最後に一言。「国際的な競争力」というもの自体、「格差」という言葉と同様の曖昧さがあり、十分な吟味を経ないと正しく使えない言葉である。つまり、この言葉は単独ではその意味が一義的に決定されることはない。しかし、本稿ではこの言葉を明確に規定する必要がないため放置した。このあたりに関してはまたの機会があれば書くことにしよう。
「格差」を巡る諸問題は曖昧なるがゆえに論じるべきことが多々ある。まだこれからも幾つかのトピックについて書くべきことが残っている。

0