「「小樽港と樺太――激動の昭和史――」に関するメモ」
地域研究
3回連続の講義(講演)の最終回。データを使いながらヒト・モノ・カネの流れを示すスタイルで主に小樽港に焦点を当てた内容となっており、樺太との関係への言及はやや少なかった。
◆1930〜1940年の樺太の移出入額の統計から、樺太への移入は北海道からが60%前後、特に
小樽からの移入は全体の1/3以上を占めており、小樽との結びつきは非常に深かったことは確かである。
ただ、1940年になると移出では小樽より稚内が多くなっている。
稚泊航路ができる前は、本州以南からの物資は函館港を経由し、北海道内からの物資は小樽港から運び出されていたものが、稚内という別の経路からも運ぶことができるようになったことには大きな意味があったと言える。
◆しかし、逆に
小樽港から見た樺太の重要性は思われていたほど高くないことが示されていたのは大変興味深かった。国内・国外との出入金シェアは5%にも満たなかった。
ただ、このことはモノではなくカネの移動を示す表により示されていた点や輸出入に伴う出入金も含まれていた点には注意が必要ではある。
◆函館、小樽、札幌の比較で気になった点は、都市の人口の順位の変遷(1920-1940年)があったが、当時、日本の領内であった「台北」は、この時代からかなり大きかったのではないかと思うが、順位には入っていたのだろうか?
◆インゲン豆やえんどう豆は当時、日本からの輸出のための商品であり、
十勝地方の産品であったこれらの豆類を小樽港から輸出するものが多かった。
十勝地方の農産物と小樽との繋がりを可能としたのは
鉄道だったという点は銘記されてよい。

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