先日のLuxemburgさんとの議論では、どうやら、お互い、誤読ないし無理解であると考えているようだ。先方はこれ以上議論をしたくないらしいし、私も、これ以上、同じ問題で彼と議論を続けるつもりは基本的にはない。
【序】 問題意識と方法
ただ、私が敢えて議論を吹っかけたのは――幾つかの理由と動機があるが――ある種の共同幻想(ネオリベラリズムの一様態)に対して、水を差す必要があると考えたことが一つの理由としてある。そして、今後も彼と
同じような意見には何度も接する機会があるだろうと考えてもいる。
したがって、今回、彼が(私から見て)私の書いたものに対して、誤読ないし無理解であった原因について一考しておくことは無意味ではないと考える。
さて、その原因は、単純化して抽出すれば2つに分解できるが、ここでは直接
Luxemburgさんの主張を検討するのではなく、それを使って、私が同種の理論に対して批判をする際に使うための概念的な道具立てを整備するために、
デフォルメして理論的に整理してみることにする。
(つまり、理念型を構成してみる、ということ。理念型だということは、彼の議論とぴったり合致するとは限らないということである。そこのところは、誤解のないようお願いしたい。)
【1】 誤解の原因1――「負担」の概念の混同
誤解(というか無理解)の原因の一つは、Luxemburgさんが使っている
「負担」という言葉は極めて多義的なのだが、それを複数の意味を混同しながら使っていることである。
その思考の構造を、デフォルメしてモデル化すると次のようになる。
まず、
国民負担率と
国民純負担率では「負担」の意味に違いがあると思うのだが、その区別が不十分である。そして、特に例を持ち出す際に出てくるのだが、これらの統計的な負担率と
「個々の家計の負担」(のイメージ)も混同が見られる。さらに、家計の
「心理的な負担感」と上記3つの負担をも混同している。
むしろ、この
「心理的な負担感」をベースにして、上記の3つを混同しながら論じているという構図に分解できる。
負担感を感じているからと言って、必ずしも負担が重いわけではないのは、詳しく説明せずとも了解可能だと思う。ところが、説明のために
「個々の家計の負担」の形で例示したり、それを想起させる言語を使う際に、
「心理的負担感」と実際の負担が混同(ないし混入)されることがよくある。
これが混入するとどうなるかというと、一般的に、
都合の悪いものは見えなくなる傾向が強まる。
(だから、社会科学では、その主張の客観性を担保する方法論の一つとして、Wertfreiheit(価値自由)という原則がある。)
★☆★
例えば、国債の支払いに税金が使われることは、
個々の家計にとって負担(その時点での支出増)であり、
負担感も感じるのだが、
国債を使って行なわれた事業からかつて得ていた便益のことは
完全に忘れさられたりする。
行政による給付(の便益)というものの多くは、いわば生物にとっての空気や水のようなものが多いので、日常的には実感されにくいという性質がある。特に給付金や補助金のように直接もらえるものでないものも多いから、尚更、そこから得られている
便益についての実感は湧かない。
実感がなくても便益は受けているのだが、完全に忘却の彼方に消し去られてしまう。
◆
もう少し具体的にしてみよう。
今の日本政府の膨大な長期債務の多くは、90年代の公共事業費の穴埋めのためのものである。90年代に(財界とアメリカの言いなりで)
逆進性を強めて減税しながら、公共事業を増発したためにできた借金がかなりの額を占める。(00年代になってからは状況は少し変わるが、ここでは省略。)
公共事業は今や無駄の代名詞のように言われているが、実際には90年代には不十分ながらも機能していた(経済の落ち込みを食い止めた)ことが実証されている。つまり、下支えの効果という形で、
便益を国民全体として既に受けている(同時に、すべてではないにしても、個々の企業や家計も便益を受けている)のである。
今の償還はその便益の分を後払いしているにすぎない。
(以上は時系列にそった金の動きだが、これを現在時点での金の動きで見ると、日本の国債は内国債だから、納税者全体から国債保有者へという流れになる。これも払う人と貰う人がいて、国を単位として見た場合、差し引きゼロ。これは以前既に述べていた。)
◆
以上のように、経時的にも共時的にも
「国を一つの単位としてトータルで見れば」差し引きゼロなのである。ところが、
「個別の家計や企業を見れば」収支がマイナスになる人もいれば、プラスになる人もいるということになる。
後者(個別の家計)の一部だけを見て(念頭に置いて)「負担が増えた」と言うのは
「負担感」を感じている人にとっては、実感に合致する上、好都合だから自然に受け入れられやすい。それに対して、上記の流れ全体を把握して、すべてを
「トータルで見れば負担ゼロだ」――ここでの「負担」の概念は「国民純負担」と同じ種類のものである――ということは
実感とは合致しない。実感と合致しないときは、実感を「カッコに入れて」客観的に(第三者的な立場に立って)見なければ、この論理を追いにくい。だから、このことは無視されがちなのだ。
ここで
キー概念である「負担」という概念が一義的に使われていれば、まだ、混乱は回避しやすいのだが、そうでない場合は、もうゴチャゴチャになる(のが一般的な)わけだ。
以上のことから、少なくとも、
高負担だとか重税だとかいう議論や主張をする際には、まず「負担」とは何かをはっきりさせなければならない、ということが言えると思う。これを本稿の一応の結論としておく。
【3】 具体的適用のために
さて、ここで先日の議論にちょっとだけ戻ると、私は「国民純負担率」の場合の「負担」とそれ以外の「負担」は、
異なった観点から、異なった尺度で測られたものであり、同列に置いては論じられないと言おうとしたつもりだが、表現や説明のまずさもあって、うまく伝わらなかった感じがする。
例えば、100円でお菓子を買ったとき、100円払ったから100円を「負担」だと考える場合の「負担」と、100円を払ったがお菓子は100円分の価値があるから【負担】はゼロだ、という場合の【負担】という概念があるとする。
この場合に【負担】が大きいか小さいか、ということと「負担」が大きいか小さいかということは別のことなのに、統計や国債やサービス給付について説明するごとに、これらがごちゃ混ぜになっている、というのが私の指摘しようとしたことのひとつであった。
この程度のことを伝えようとしただけなのだが、それが理解されなかったワケだ。
(上のように結論を導いてきた)今になって思えば、
最初に彼が使っている「負担」という言葉の意味の混同を、はっきり指摘すべきであった。
次いで、それぞれの説明を維持したければ、
その都度「負担」という言葉の意味を、正確に限定しなければならないことを、個別に指摘すれば十分だっただろう。
(それをすれば、結論は「日本は高負担国家」という言葉では述べることはできなくなる。しかし、「日本では税と社会保険料の支払いは少ないが、その割合としてみれば、社会保障給付は低い」のように限定するならば、適切な表現になるのである。)
ただ、以上のことを理解してもらうために、ネックになっていたことがもう一つあった。今度は
「受益」の意味に関わる問題である。(国民負担率と国民純負担率の違いも、ここに絡んでくると思っている。)これも結構大事な問題を孕んでいるので、そのことについて、次回、今回と同じようなやり方でまとめようと思う。
(つづく)
【関連エントリー】
ツァラトゥストラはこう言っている? 以下、3件が私からの批判
◆
日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その1)
◆
日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その2)
◆
日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その3)
ついでに、このエントリーへの雑駁な補足
◆
メインブログのエントリーへの補足
→このエントリーは先方にかなりの打撃を与えてしまったようだ。
A Tree at Ease
批判対象となったエントリー
◆
国民負担率の「賞味期限」
先方からの反批判
◆
日本は重税国家である
マックス・ウェーバー
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
※余談だが、国債については「負担」があるかどうか、財政学者の間でも議論が定まっていない。それについて素人である私が断定しようとは思っていないし。ただ、国民純負担率の概念と最も整合的だと思われるタイプの議論を紹介したにすぎない、ということをお断りしておく。
【追記】2008.3.9
もし、Luxemburgさんの意見を擁護したい方がいるならば、
私が書いたことについてアレコレ言う前に、ぜひ次のことを示してほしい。
@彼が使っている「本当の国民負担率」から「日本は高負担国家」ないし「日本は重税国家」という帰結を
論理的に導いてください。
Aその際、「負担」「高負担国家ないし重税国家」の意味を
明確に定義してください。(この手続きは決定的に重要である。)
Bその上で、国債や教育について彼が論じている事柄が、Aの「日本は高負担国家、重税国家である」という命題を(感覚的とか漠然としたものではなく)
「論理的に」補強するものであることを論証してください。(彼がどのように論理的に連結しているか示してください。)
Cその際、国債や教育などについて論じている際に使われている
「負担」という用語の意味が、すべての場合について、Aで定義されたものと同一であることを示してください。
以上の4点を【 論 理 的 に 】説明できた場合、それに対してお答えしたいと思う。
もし、それが出来ないなら、
私の論を批判するには百年早いと言っておく。
なぜなら、
私は、これらのことをLuxemburgさんは論理的に示していない(むしろ、論理が破綻している)と批判しているからだ。(究極的にはもっと掘り下げたところが問題なのだが、まずは上記のことを論証できなければ、そもそも話にならない。)
あと、念のため断っておくが、私は、日本の社会に、学費が高いとか国債の償還などに伴う問題が存在しないと言っているのではない。繰り返しになるが、そもそもそれ以前に、
彼の論証が成り立っていない(個々の問題が論理的に結びついていない)ことを批判しているのである。

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