「「日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その2)」
税財政
さて、前回の続きである。
Luxemburgさんのブログ「A Tree at ease」のエントリー「
国民負担率の「賞味期限」」を読んで、私が考えたことを述べていきたい。
【論点2】純負担を用いて「日本は高負担」と言った場合、「サービス給付が少ない」と付け加えることはできない、ということ。
Luxemburgさんが日本が「高負担国家」であるという際に、国民純負担に着目し、社会保障給付が少ないことをもって「日本はスウェーデンより高負担国家」だと断じたことを述べてきた。
それをさらに敷衍して、Luxemburgさんは「さらにこの先が問題である」と言って、教育などのサービス水準が低い日本の現状を批判する。
教育などのサービス水準が低いという認識は私も同感であり、高等教育の無償化などはやるべきだと考えているから、共感するところは多い。
しかし、
純負担を用いて「高負担だ」と仮に言えたとしても、それに付け加えて、「サービス水準が低い」という批判を並べることはできないはずである。
Luxemburgさんは次のように述べていた。
◆ サービスはどうなのか
これですむほどこの日本は甘くない。さらにこの先が問題である。
世界一高いといえる負担をさせられ、受けるサービスはどうだろうか。例えば、高くなった国立大学の学費。ヨーロッパでは無料かそれに近い。彼らは税金を払っているから、十分なサービスが受けられるのである。ところが、日本は世界一の負担をしながら、そのサービスは受けられない。それらを考慮していくと、世界最高の負担をしながら、おそらく先進国最低水準のサービスしか受けられない、ということになる。
まず、「純負担=負担−給付」であることを確認しよう。
Luxemburgさんが言う「高負担」とはこの純負担が大きいことを言っていた。ところが、ここでは一転して、給付のことしか言っていないことに注目しよう。日本では教育に関する公的な負担が小さいことを無視しているのである。
同じ事を再度、Luxemburgさんのグラフを使って説明すると、以下のようになる。
すなわち、教育に対する公的負担はグラフの赤の部分に含まれている。そして、教育の公的給付はグラフの青の部分に含まれている。したがって、
国民純負担の計算の中に、既に教育に関する公的な給付と負担の関係は含まれていたのである。したがって、これは単なる純負担の「中身の問題」だとしなければならず、
純負担が重いとする主張に付け加えて論じられる問題ではない。
Luxemburgさんの議論ではこのあたりも曖昧になっていて、どのように捉えているのか、いまひとつ不明な点もあるのだが、恐らく次のような
イメージの連鎖があるものと考えられる。
すなわち、Luxemburgさんが「世界最高の負担をしながら、おそらく先進国最低水準のサービス」という結論を持ってくる際に、「世界最高の負担」という部分は「国民純負担が高い」とする彼の主張――前回のエントリーでは、既にLuxemburgさんの議論には、このように言う根拠がないと批判した――から持ってきて、さらに「先進国最低水準のサービス」という部分を上述の部分から引き出しているのであろう。
しかし、グラフの上の箇所で述べたように、
「高負担」という際には、国民純負担、つまり「差し引きしたもの」で言っておきながら、「低サービス」という際には、「差し引きではなく公的サービス給付の単純な少なさ」を持ち出すとすれば、明らかにおかしい。つまり、「税負担の単純な少なさ」がここでだけ無視されているからだ。
以下、私見を述べる。
むしろ、
日本の政府は「小さすぎる政府」であり、歳入が小さすぎるから歳出(サービス給付)も小さい。そのために社会のさまざまな問題に対応できないことが問題である、と言うべきであろう。
公的負担が少ないから公的サービス(例えば高等教育)が貧弱であり、だから私的負担をしなければ高等教育も受けられず、高等教育を受けるには高い学費を払わなければならないのである。つまり、「グラフの高さ」が低いことが配分に問題が生じる大きな原因なのではないか。
(なお、純負担を使って、社会保障や教育に関して国際的な比較する場合、基本的に総額が大きい方が有利ではないか、という疑義もあるのだが、そのことは今回は議論しないでおく。)
【その3に続く】
【関連エントリー】
◆
日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その1)
◆
日本は高負担国家なのか?――Luxemburgさんへの批判(その3)
◆
負担とは何か? ←私の論点を理論的に整理したエントリー

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