「「きっこの日記」の死刑容認(推奨)論を批判する」
政治・社会
ブログ再開宣言をしてはみたものの、結局、忙しくて1週間以上更新できずにいた。今もまだ、最新の情報に対して反応できるだけの体制は整っていない。そんな訳で、少し古い話題ではあるが、一言、私見を述べたいものがあるので、今日はそれについて書いておく。
それは、日本には
死刑容認論者が結構いるようだが、彼らの言説に対する
批判(Kritik)である。
その批判対象としては、超有名かつ超有力なリベラル系ブログである「きっこの日記」を使わせてもらうことにする。
9月23日の「きっこの日記」に、磯谷利恵さんが殺害された事件についてのコメントがあった。
「あたしは、まったく知らない他人のことなのに、利恵さんがかわいそうなのはもちろんとして、何よりもたった1人残されたお母さまのお気持ちを思うと、気の毒で悔しくて涙が止まらなかった。そして、あたしは、この犯人を絶対に許せないと思った。」
「自分の愛する妻を、子供を、家族を殺されたご遺族としては、司法が裁かないのなら、自分の手で殺してやりたいと思うのは、極めて当たり前の感覚だ。」
「娘さんの幸せだけを思い、今まで2人で助け合いながら生きて来たのに、こんなにも酷いことになるなんて、あたしは、この犯人を絶対に許せない!」
きっこ氏はこのように述べた上で、利恵さんのお母さんの手記を紹介し、読者に「殺人犯たちに極刑を科す陳情書」への署名を勧めている。
私の論点は次のところにある。
一人の人が殺されたことに心を痛めるのは当然だし、それに対して復讐・報復したいと思うのも自然な感情の発露だろう。私とて、そうした同情は感じないわけではない。
しかし、そのような同情を、容疑者に対して死刑を求めることに直接繋げるならば、理由が不十分である。そこには明らかに論理の飛躍がある。
すなわち、
「犯人を殺したい」ということと「犯人を殺してよい(殺すべきだ)」を結ぶ論理(理由)がないのである。
◆◇◆
上で引用したきっこさんの文章でいえば「気の毒で悔し」い気持ちや「自分の手で殺してやりたいと思うのは、極めて当たり前の感覚」であると認めるとして、そこから犯人(容疑者)を許せないと思うところまでは良いとしよう。
しかし、仮にそこまでを認めたとしても、
そうした気持ちをそのまま死刑執行につなげるところには、何の論理もないのである。すなわち、「犯人を殺してよい」ということを示せないならば、「犯人を殺そう」とは主張できないはずである。
ここに、きっこさんの論理の決定的な欠落がある。つまり、彼女の述べていることは、正当化できていないのである。
なお、この点に関して、日本には現に死刑制度があるのだから、死刑は容認されているという意見もありそうなので一言言っておくが、制度があるということと、その制度が正当であるということとは一致しない、と言っておく。
◆◇◆
これでは、
ある物を無償で手に入れたいと熱望している人がいる場合、その人が「欲しい物を盗んでも良い(盗むべきだ)」といっているのと同じである。
たとえば、
自衛隊で同僚女性の下着を何度も盗むという事件が、先日、報道されていたが、この自衛官のように、下着がものすごく欲しければ盗んでいいのか?ってことだ。
しかし、それが正しくないということは誰でも知っているはずではないか?
◆◇◆
この事件そのものやきっこさんの主張は、死刑制度の是非について問うものではない。しかし、彼女の主張の前提として、死刑制度を是としている。(死刑制度の存在に反対しながら、死刑執行を求めるのは矛盾であろう。)
したがって、今回の議論においても、死刑制度の存在を容認するかどうか、ということは潜在的に問題化されていると言うことができる。
そこで、死刑を制度として容認すべきか容認すべきでないか、という議論において、死刑容認論者は、自らの論を正当化するためには、この飛躍の間隙を埋めるなければならないはずである。死刑容認論においても、加害者側のことも視野に入れて議論を構築する必要があるのはもちろんだが、容認論者がクローズアップしがちな被害者側に視野を限定しても、論理の飛躍があるのだ。
ちなみに、「論理」という用語を使うと「論理じゃなく感情が大事だ」と思う人も出るかもしれないので、念のため付け加えておくと、
ここで「論理に飛躍がある」ということは、「正当化の根拠が欠けている」ということである。すなわち
「正当性がない(主張を正当化できていない)」ということである。もう少し強調的に言い換えるならば、
「不当である」ということだ。
繰り返すが、上記のような理由に基づいて
死刑容認論を主張するならば、この論理の飛躍を解消し、正当性の根拠を示さなければならない。とりわけ、「きっこの日記」のように個人の日記とはいえ、社会的な影響力がそれなりにある媒体の場合は、そう言うべきだと思っている。
残念ながら、私はこの間隙を埋めるような理論に出会ったことはないし、おそらく不可能だろうと愚考する。可能であるなら、ぜひ教えていただきたいものだ。
なお、余談になるが、これとは別の類型の死刑容認論もあるのだろうが、それらについては別途、目にしたときに批判しようと思う。理由は2つ。一つは書こうというモチベーションが高まったときに書くのが良い内容に繋がるから。もう一つは、エントリーを長くしたくないから。このエントリーでさえ、ありうべき反論に対して予め反論を述べておくことで、自論を明確化しておきたい箇所は多いのだが、あえてそれをしなかったところが大部分を占める。それをやると、この数倍の長さになってしまうことが経験的にわかっているから。

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