「江畑謙介「米国の誤り、イラクと北朝鮮の共通性」(その1)」
外交・軍事・世界情勢
表記のタイトルの講演会に行ってみた。
内外情勢調査会なる組織が主催(?)している講演会であるらしい。
彼が最初に強調したのは、
情報の扱い方についてであった。これはアメリカのイラク情勢に関する評価が誤ったものであったということへの批判の意味が込められている。
すなわち、江畑氏は、
アメリカは「始めからイラクが大量破壊兵器を持つ」と決め付けたと批判する。そして、その背景には9.11のテロが、アメリカの支配層のみならず一般の多くの人々の間にまで深い恐怖を与え、アメリカへのテロ攻撃に対する懸念が強迫観念の域にまで高まったことを指摘している。こうした恐怖に駆られてアメリカ政府は9.11テロの後、フセイン政権の打倒を決めたのだとする。
また、同じように
「フセイン政権はテロリストと関係があると始めから結論づけた」と批判する。これはフセイン政権打倒を決めたアメリカ政府にとっては、敵がテロ組織と関連する方が都合が良かったからであり、こうしたところに、アメリカ政府による情報操作があった可能性を示唆する。
確固たる根拠がないままであっても「フセイン政権とテロ組織には関係がある」と断定してしまえば、
「言った者勝ち」になってしまうというのである。なぜならば、フランスやロシアのような国がたとえフセイン政権とテロ組織との関係を否定する情報を持っていたとしても――実際、持っていたらしいのだが――自国以外の国を守るために自国の諜報組織の能力を敢えて公にするなどという自国にとって不利益となる選択はとることができないため、誰も明確な根拠を示して反論することができないからである、とする。
ここまでの江畑氏の分析は、基本的に概ね妥当であると私も考えている。
なお、次の点を付言しておきたい。以上のようにして「フセインはテロ組織と関係がある」ことにされてしまったのだが、このような事態を私は、村上陽一郎の表現を借りて
「事実factは理論によって作られる」と言っている、ということである。
つまり、「フセイン政権とテロ組織には関係がある」という「事実」が、その事実が作られる以前にあった「フセイン政権とテロ組織は関係があって欲しい」あるいは「大量破壊兵器を持っているイラクのフセイン政権はアメリカにとって危険であり、排除しなければならない」という「理論(考え)」によって作られているのである。
あらゆる「事実」は、その「事実」に先行してある「理論」によって「作られている」というのが、私の基本的な認識論的な立場である。
さて、このような情報操作による事実誤認(情報評価の誤り)であり、そこから戦略の誤りが導かれてしまったのだが、それに対して江畑氏が提示した対策は概略、次のようなものであった。
第一は、
科学的な手法によって「客観性」を保つべきだということである。「始めに結論ありき」ではなく、与えられたデータ、特に数値として得られたデータに基づいて、事実を判断しなければならず、また、公刊されている多様な情報を活用することを通じて、さまざまな意見や考え方を取り入れ、さまざまな可能性を考えに入れながら判断することで「客観性」を担保できる、というわけである。
第二は、人間の活動には多かれ少なかれ共通性があり、そうした
共通性に基づいて常識を働かせて推論を積み重ねることである。
いずれも、
言われていることを鵜呑みにしないという点で共通しており、この一点においては私の見解も同じであると言える。
しかし、江畑氏の提示したこれらの条件は、一般的に言って
「庶民」にとっては負荷が高すぎ、さほど効果がある提言とは思えない。まぁ、何というか「精神論」というか、「心構え」を述べた程度のものであり、
具体的な解決からはほど遠いといわざるを得ない。
このように言うだけで(言われて気をつけるだけで)情報操作に対抗できるならば、もともと苦労などないのである。
まず、公刊情報を活用することは、例えば、常日頃から(リストラによる業務過多などで)残業にいそしむ(多忙な!?)サラリーマンにはきわめて困難である。やや極端な例だが、私は幸い、年間200冊以上の書物を読むだけの時間的・体力的な余力を作り出すことに成功している。しかし、そういうことは世間一般には期待できないのである。
さらに、世間一般の人々(?)にとっては、
アクセスできる情報源がそもそも限られているのである。インターネットの情報は確かに有益ではあるが、確かな情報というのはかなり限られている。多用な見解はあるが「眉唾もの」が大半と言ってよい。それに大半の人は日本語しか読めないのだから、アクセスできる情報も日本語のものに限られる。中東や北朝鮮の情勢について日本で得られる情報ははっきり言って、それほど多様とは思えない。
もっと言えば、知識の取捨選択や検証という作業自体が、高度な教育水準を前提して初めて可能な営みであることを彼は忘却している。私は札幌にある某国立大学の大学院に数年間出入りしてきたが、国立大学の大学院生(一般的には知的なエリート層に該当すると思われる)であっても、こうした
検証のための知的技術はきわめて未熟であるということを痛いほど知っている。いわんや一般の人々をや。
まだまだ挙げればきりがないが、差し当たり、このくらい示せば上の2つの提言が、人々にかなりの負荷を要求しており、大量現象としては、実現が極めて困難であるということは理解できるであろう。
また、逆に知的エリート層に対するメッセージとして見れば、物足りなさを感じる内容である。この内外情勢調査会なる組織の性格からすると、経済的には比較的豊かで、社会的な地位もそれなりにある、社会的に見て中産階級的な位置づけよりもやや高い価値付けがなされている社会層がメッセージの対象であると考えられる。(私自身はこのカテゴリーからは外れるが…。)したがって、「庶民」よりも平均的に見て教育水準が高い人々であると予想され、「知的エリート層」とまでは言えないにせよ、いくらかは社会的な関心も高い人々であることは確かであるといえそうである。
提示された内容が具体的でないために、この講演を聞いたことが直接、次の行動に結びつかないのである。社会問題への関心や知的・教育的水準が高い層の人々に対して述べる場合には、
当該個別問題について有力な情報源、情報媒体を相当数提示し、それらの性格などを江畑氏の視点から解説することが、「公刊情報を活用する」ということを実践できるための一つの教え方であろう。
つまり、どの情報源はどのような偏向・傾向があるのか、どのような種類の情報を得るためには、どこに行けばそれが手に入るのか、そうしたことを具体的に示すべきなのである。
また、具体的な知識だけでなく、現在の言説空間において語られている
幾つかの有力な理論枠組みを提示し、同時にそれらの限界なども簡潔に示すことなども有益であろう。
事実を検証するのは事実によるのではなく、「理論」によってなされているからである。
(なお、この点で私の見解は江畑氏のものとはかなり異なっている。正反対といえるかもしれない。しかし、例えば、彼が称揚した「理系」では、実験などで反復可能なものとして数字のデータが得られるなどと言っていたが、
科学の実験においても、期待された理論値と異なる結果が出た実験は、その方法が適切であったかどうか、どこかに誤差を増幅させるような操作上の誤りがなかったかどうかがまず疑われるのが普通である。期待された数値を導き出した理論が疑われるのではない。こうした立場の相違を示すために、上で「事実は理論によって作られる」という点に触れておいた。)
こうした理論的な準拠枠を多数得、それらを使いこなすことによってこそ、的確な事実の検証が可能となるのである。そこまですぐに到達することは困難ではあるが、「内外情勢」に積極的な関心を抱いている人々であれば、こうした理論枠の提示は興味深いものとして受け止めるであろう。
例えば、
世界システム論などはそうした理論の一つであろう。
このように、
江畑氏の情報の取り扱いに関する提言は、世間の多くの人々にとっては実現が困難な高いハードルを課しており、また、「内外情勢」に関心の高い人々にとっては具体性に欠けるために実践的な行為に繋がらず、それらの中間的な人々にとってもまた、具体性に欠けるために実行につなげることができない、という代物であると思われる。
まぁ、江畑氏にしてみれば
「情報はタダではない」という、至極まっとうな意見の持ち主であるがゆえに、情報源などをあまり安売りしたくはないのだろうが、
わざわざ集まって話を聞きに来ている人たちに対して、それに見合うだけの情報を提供しようとする姿勢は、もっとあってもよかろう。たかだが90分程度の話でここまで盛り込むのは無理があるので、議論の構成やポイントの提示の仕方に無理があったと考える。ほとんど独立可能な3つの議論が平行されていることがそもそも問題なのである。
(つづく)

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