渡辺治氏の講演についてのコメントを述べる。
まず、彼の講演の最後のあたりで、先日の中国でのいわゆる「反日デモ」や去年(だったか?)の重慶での(?)サッカーの試合で日本に対してブーイングが起こった事などについて触れられた点について。
アジアの人々の側から、今の日本企業の進出を見ると、その背後に企業を守る軍隊が来るのではないか?という疑念がある、と渡辺氏は指摘する。
また、中国の人々の日本への反応に対して、しばしば「反日教育」が問題だと言われるが、これもやや的外れであると渡辺氏は考える。むしろ、「反日教育」があり、それが反日感情を助長するものであることが事実であるとしても、
そうした教育が国民に入るか否かは国民の経験に依存するものである。
重慶という土地は、日本帝国によって市民を対象とする初の爆撃が3年にわたって行われたところであり、それによって多くの無辜の市民が死亡し、負傷したという経験を持つのである。殴った側はそのことを忘れるが、殴られた側は決してそれを忘れることはない。
これらの指摘は中国やアジアとの関係を考える上で非常に重要な指摘だと思った。ある意味、近隣のアジア諸国の側からの視点というものが日本では圧倒的に欠如しており、また、伝えられてもいないことは大いに問題である。
私自身にも、これはまだ不足している観点であると反省させられた。
(念のため書いておくと、日本帝国がこれらの国々の人々を「殴った」ということや、現在もそれを続けている面がある、ということ程度のことは私もわかっている。問題はアジアの人々がどのように捉えているかということを、より具体的にかつ多様に思い描くことができるかどうか、ということである。)
もう一点。
渡辺氏の議論は、政治学者・杉田敦の議論よりも実際上の戦略として適切であり、また、本橋哲也の『ポストコロニアリズム』よりも先を行っている、ということ。
杉田敦氏は現在の日本の政治学者の中では、良心的で、なかなか良い議論をする人物の一人であるが、今日の渡辺氏の議論と比較するとやはり私は渡辺氏の方が戦略として適切であると考える。
杉田敦の議論とは、私が知る限りでは「条文を変える側も条文を守る側もいずれも条文を重視しすぎており、条文に書かれてさえいれば、それが実現できると考えている点で誤りである。むしろ、問題は条文よりも、実際の運動であり、多様な運動が展開される(ことで現在の改憲論を克服す)べきである。」というようなものである。
条文に書かれていることと現実は一致せず、運動が必要であるという点では両者の見解は一致している。しかし、運動が連帯できる結節点あるいは理念的な核があるかどうか、という点で二人には相違があるように思える。
杉田氏の議論は、ナショナリズムとの対決という点でも弱いと以前から思っていたが、改憲論としてもやはりそうである。ナショナリズムに対して多様なアイデンティティを強調しても、集団をまとめる理念として、どのアイデンティティ、どのカテゴリーも同じように機能するわけではない。エスニシティーを核にしたナショナリズムはかなり情動的感染力の強いイデオロギーであり、それに対して多様性を強調するだけでは――「だけ」ではないのかもしれないが――結局、戦略的には敗北に終わるのではないかと考える。
憲法9条の議論にしても、彼のコンスティテューショナル・ポリティクスという概念には、長期持続のような連続的な捉え方を政治に導入するという意味では賛成する面はあるが、やはり富と権力を持っている人々の多くがかなりの程度共通の意見を以って改憲を主張しているという現実に対して、まとまるべき理念を示さないままの運動をしても対抗できないのは火を見るより明らかではないかと思う。
条文だけを大事にするかのような捉え方、考え方には反対しながらも、9条の示す理念を、多くの人々が賛同できる考えとして明確に打ち出す渡辺氏のような議論の方が、現在において護憲平和運動を成功させていくにはふさわしいのではなかろうか。
また、本橋氏の議論より先を行っているとは、9条や市民運動の不足を認めながらも、それをバージョンアップさせる考え方を示しているところである。ポストコロニアリズムの多くの議論は、どうも植民地主義を告発したり、その文脈で9条の不足な部分を明るみに出したりするところで議論が終わり、ここから考えなければならない、という終わり方になっていたりする。問題を洗い出すことも大事だが、ポストコロニアリズムは「別の世界」を提示することが少ないように思う。
日を改めて、小森氏の議論について簡単にまとめたい。

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