2005年2月の写真。
web 上に流れている通説の一つに、駒沢、野方、大谷口の3物件はいずれも中島鋭治氏が設計したものだ、というものがある。しかしそのような断定は、ひょっとしたらいささか乱暴なものなのかもしれない。伊東孝氏の『日本の近代化遺産』(岩波新書 2000年)には駒沢物件に関するこのような記述がある。
配水塔に設置された銘版から、主に東日本の上水道敷設に貢献のあった中島鋭治が顧問としてかかわり、主任技師仲田聡治郎・技手吉田篤三が中心になって設計・監督したことがわかる。
また同書には、野方、大谷口物件について、このような記述がある。
1924年(大正13)7月、荒玉水道町村組合は、水道界の権威者であった中島鋭治に調査設計を委託した。技師の仲田聡治郎も加わり、渋谷町水道と同じコンビでとりかかった。技手には、小松七郎・岩田鶴市・畦田長保・山崎賢郎の四名が任用された。(中略)しかし中島はいよいよ実施設計というとき、急逝した。享年66歳であった。後を、工学士の西大條覚が継いだ。配水塔のデザインはしゃれている。これをイスラム教のモスクのようだという人もいる。ドーム形の屋根とアーチ窓、上にのる小ドーム、円周通路と持送り、階段室と縦長窓、最上部の窓はここでもアーチ窓になっている。中島鋭治の遺作なのか、それとも西大條覚のデザインなのかは不明だが、その後、このロケット・タイプの配水塔は標準タイプになったらしく、同様なものを埼玉県児玉町(1931年)や千葉県松戸市(1937年)でも見たことがある。(引用の際に横書きに改めるにあたって、漢数字をアラビア数字に改めさせていただいた箇所があります。)
事の真相について臆説を述べることはさしひかえたいが、おそらく、これらのプロジェクトは優れた一個人の能力によって成し遂げられたとするよりは、技術者集団の共同作業によって遂行されたと理解するのが妥当なところであろう。一将功成りて万骨枯る、という陳腐な一句が思い起こされるばかりである。