2006年1月の写真。
中里の給水塔から崖下の線路に視線を移すと、トンネルの玉門が見える。この中里トンネルは貨物線のトンネルだが、国鉄が分割民営化されてまもなく東北本線や高崎線の電車がこのトンネルを通って池袋方面に乗り入れるようになった。はじめのころは池袋で折り返していて、池袋始発の朝の下り電車に乗ると、車内はガラガラで電車もトロトロ走っていた。飛鳥山のあたりで減速してしばらく停まっていることもあった。のんびりとしたとてもいい電車だったのだ。しかしその後南進して湘南新宿ラインと呼ばれるようになり、新しい車輛になってグリーン車がついたり速度がやたらと速くなったりして、スーツを着たビジネスマンみたいなヒトが乗るような電車になってしまった。以前は池袋から大宮まで30分ぐらいかかったのに、いまでは20分ちょっとで行ってしまう。だから直線区間ではビュンビュン飛ばす。でもこの中里トンネルの中はものすごいカーブなので、さすがに減速運転を励行しているようだ。
1945年4月13日の大空襲の際に、シブサワタツヒコ少年(“彦”という人名漢字体が混入するのは不快であるからすべてカタカナで表記する。)が逃げ込んだのがこの中里トンネルであった。『狐のだんぶくろ』(河出文庫 1997年)より引用する。
山手線の電車が駒込駅を出て田端方面に向かうと、ゆるやかなカーヴになって、その右側は汽車の通る深い谷になっている。谷底をはしる汽車は、田端の高台の下のトンネルをくぐり抜けて上中里方面に向かう。私たちは逃げ場を失って、とうとう急斜面の崖を降り、このトンネルのなかへ逃げこんだ。
一晩中、私たちはトンネルのなかにいた。汽車がきたら大へんであるが、こんな物すごい大空襲では、汽車が正常に動いているはずはなかった。ときどき、トンネルの入口から外をのぞくと、外はことごとく紅蓮の焔で、形容を絶する火の海だった。風に煽られた火がここまで飛んできたら、もう駄目だと思うと気が気ではなかった。しかし、さいわいにしてトンネルのなかは無事だった。
中里トンネルがなかったならばシブサワタツヒコ氏の後年の文業は地上に存在しなかったかもしれないと考えると、トンネルに対する深い感謝の念がふつふつとわきあがってくる。そういうわけで、アタシの心の中では、この中里トンネルは世界遺産級の戦争遺跡である。湘南新宿ラインの電車に乗って中里トンネルをくぐり抜けるたびに、もう二度と戦争を起こしてはいけない、そしてもう二度とアメリカの戦争や空爆に加担してはいけないと心に誓うのだ。これは個人の内心の問題であるから、宗教施設でもないところで不戦の誓いをするなんてトンデモナイなどとヨソサマから文句をつけられる筋合いはないはずである。