2014/5/10

2976:へんぼり  

 彼女の両親は、彼女が小学校3年生の時に離婚している。兄弟はなく、一人っ子であった彼女は母親に引き取られた。その後父親とは音信不通に近い状態が続いたようである。その父親も昨年亡くなっている。そのため、父親に関する記憶は少なく曖昧である。

 「あんまり良く覚えていないんだけど、小さい頃は父親とこうしてお風呂に一緒に入ったという記憶はあるのよね・・・普段父親はどちらかというと塞ぎこんだ感じの印象しか残っていないんだけど、お風呂で一緒の時はなんだか楽しげに見えた。」

 はっきりと彼女の母親は離婚の原因を話したがらないようであるが、どうやら父親の鬱病が原因のようである。今日ほど鬱病がポピュラーな存在ではなかった時代の話である。その原因はひっそりと隠されるように蓋をされたようである。

 「こんなに年数がたってしまうと本当にあったことなのか、夢で見たことなのか、あるいは単なる空想なのか、判然としなくなっちゃうけど、断片的な父親の記憶があって、そういうのは思いのほかはっきりと覚えていたりする。」

 「一度、父親と二人っきりで饂飩屋さんに行った記憶があって、確か埼玉の方の店だったような気がする。そこの店は変わった名前のオリジナルメニューがいっぱいあって、どれを頼もうか迷った記憶がある。」

 「その時、父親が『人里』と書かれた文字を指して『これは、ひとざとって読むんじゃないんだよ・・・へんぼりって読むんだ。これが一番おいしい・・・これをたのもう・・・』って言った。私はその読み方が面白くって『へんぼりってなんか変だけど、これにする!』って答えた。今でも何故へんぼりっていう読み方なのかよく分からないけど、その言葉の響きが独特で記憶のなかにしっかりと残っているの。」

 「へんぼり・・・って、そういえば檜原村にそういう地名のところがあるね・・・ロードバイクのロングライドで檜原村はよく通るんだけど、確かそういう地名のところがあった。檜原街道沿いじゃないかな・・・『人里』って書いて『へんぼり』か・・・普通読めないよね。」

 「それと、そのオリジナルメニューが沢山ある饂飩屋さんにも心あたりがあるな・・・そう遠くないよ。所沢か入間辺りにあったと思うよ。今度一緒に行ってみようか・・・そして、『へんぼり』があったら、食べてみよう・・・君のお父さんのお薦めだからね・・・」

 「まだ、幼いころのことだから味の記憶はあいまいだけど、美味しかったような気がする。その時の父親は病気の具合が良かったのか、とても機嫌が良かった。数少ない楽しい思い出かな・・・あまり家族そろって出かけることのない家だったから。」

 私は両腕で彼女の肩を後ろから抱いていた。その両腕をゆっくりと朝顔の花が開き始めるように解いて、一つ伸びをした。

 二人は浴槽を出た。扉を開けて外に出てバスタオルで体を拭いた。浴室から這い出してきた湯気で洗面台の鏡が薄らと曇った。その鏡に背中の傷を映してどんな具合か確認しようとしたが、曇ってしまったため判然としなかった。手で鏡の曇りを取り去ろうとも思ったが、やはり止めた。バスタオルがその傷の部分に触れた時少し痛んだ。




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