2013/12/23

2839:阜  

 「聴いてみますか・・・?」

 その店員は静かな口調で訊いてきた。

 「聴けるんですか?」

 この部屋は、単にオーディオ機器を保管にしているだけかと思いこんでいたので、少し意外であった。

 「ええ、アンプはLEAKのVarisropeとSTEREO60が接続されています。スピーカーコードは今はGRFに接続されています。こんな状態ですから、とりあえず音が出るといったレベルですが・・・プレーヤーはこちらに置いてあるTHORENS TD124です。よく聴かれるのはクラシックですか?」

 「ええ、そうなんです。」

 「こちらへどうぞ・・・」
 
 店員はどこかから小さな木製の椅子を出してきて、GRFが置いてあるエリアのすぐそばに置いた。私はその椅子に腰かけた。この部屋の中はエアコンが効いていない。肌寒かった。コートは着たままであった。
 
 「ベートーベンのヴァイオリンソナタです・・・」

 そう言って店員は、THORENS TD124のターンテーブルにレコードを置いた。店員が脇に置いたジャケットをそっと覗いた。ETERNAレーベルのジャケットであった。

 結構目を引いたのがそのTHORENS TD124であった。色合いが普通のものと全く違っていた。キャビネットは黒の艶消しで仕上げられていて、普通はクリーム色であるシャーシは鮮やかな水色にリペイントされていた。実に目に鮮やかで都会的な風情であった。色合いが異なるとTD124の雰囲気も全く変わるものである。普通のTD124はいかにもビンテージ然とした風情であるが、このTD124はモダンでシャープな印象すら与える。

 店員は静かに針をレコードに降ろした。針音が静かな空間に響き始めた。ベ―トーベンの音楽はゆったりとした感じで鳴り始めた。
 
 アンプは電源を入れたばかり、針先も暖まっていない。音はボケボケであった。

 店員は右斜め後ろに立っていた。「シルバーってどうかなって思っていたんですが、自然な感じで肩ひじ張っていない風合いですよね・・・全然脈絡ないんですが、岐阜県の『ふ』って漢字知ってますか・・・このGRFがここに来た時すぐに聴きたくなって聴いてみたんです。この組み合わせで・・・その最初の音が出た時、何故かしら岐阜県の『阜』という漢字を思い出していたんです・・・この『阜』という漢字、岐阜以外では見かけたことがないなと・・・埠頭の『ふ』とは少し違いますしね・・・どういう意味合いなんだろうと・・・疑問に思ったんです。全く意味合い的なものは何もないのですが・・・その音の雰囲気が岐阜の『阜』という漢字を連想させる・・・そう感じたんです。」

 ヴァイオリンソナタは第一楽章を終えた。第5番であった。そのタイトルどおり「春」を連想させる幸福感に満ちた音楽である。この環境ではまさに音が出ているだけといったレベルではあったが、何故か店員の語った岐阜県の『阜』という漢字が脳内の白いスクリーンに映されたままとなっていた。




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