2010/10/22

1683:4杯目  

 「キッチン・バー 昔」は地下にある。階段を下り店に入ると、照明を落とし気味の店内は落ち着いた雰囲気である。前回同様カウンター席に陣取った。6時なので、まだ店内は込んでいない。金曜日なので「もしかしたら込んでいるかも・・・」と思っていたが、それほどでもなかった。

 凍りそうに冷やしたジョッキに生ビールの泡がクリーミーに漂っている。ドンとテーブルに置かれたジョッキを掲げ、お互いに目を見て微笑む。「じゃ、乾杯・・・」

 「寧々ちゃん」とビールのジョッキを傾けあうのは、これで2回目である。「寧々ちゃん」は無類のビール好き。前回は中ジョッキ7杯を空にした。見かけによらずなかなか豪傑である。

 今晩もハイペースである。こちらも多少あおられ気味にペースを上げる。3杯目を空けたあたりから「寧々ちゃん」のスイッチはONとなった。これも前回同様である。

 3杯目までは話題も、子供の受験のことやゴルフのことなど比較的差し障りのない事柄の周囲を駆け回る。ちなみに「寧々ちゃん」のところの子供と、うちの上の子は学年が同じである。「寧々ちゃん」は比較的早く結婚した。子供が生まれたのは「寧々ちゃん」が25歳の時であった。その子がもう高校3年生である。

 3杯目を空けると、ロードバイクで緩やかな下り坂を走っている時のような疾走感が加わってくる。す〜とスピードが上がり、空間は流線型の形に切り取られ、後方へ流れ去ってゆく。

 「取り戻したいとは思いませんか?」「えっ・・・何を?」「失ったものですよ・・・」「なに、なに・・・失ったものって・・・」「女ですよ・・・この前38歳の時に失ったって言ってたでしょう・・・」「そんなこと言ったかしら・・・」「言いましたよ・・・はっきりと覚えています」

 「寧々ちゃん」は38歳の時、子宮頸癌のために子宮と卵巣を摘出している。その後はご主人ともセックスレスである。痛みがあったことが原因になったようである。

 「また口説こうといているんですか・・・taoさんも諦めが悪いですね・・・骨折り損のくたびれ儲けですよ・・・」4杯目も半分ぐらいが「寧々ちゃん」」の胃の中に流れ込んでいた。

 「骨折り損ですか・・・」「そう、そう・・・失ったままでいいんです・・・」「未練はないのですか・・・このまま女が終わってしまっても・・・」

 私も4杯目のジョッキの半分を空けた。ジョッキをテーブルにおきながら、右横に座っている「寧々ちゃん」の横顔を覗き込んだ。「寧々ちゃん」はカウンターの向こう側のガラスに映った自分の顔を見ているようであった。

 「とても綺麗ですよ・・・」そのガラスに映った顔に向かってつぶやいた。するとガラス越しに私の視線を捉えた「寧々ちゃん」はいつになく真面目な表情でこちらを見つめ返した。

 「取り戻せるのかな・・・難しいと思うけど・・・」その瞳の色合いはゆらいでいた。「取り戻せますよ・・・きっと・・・」カウンターの向こう側のガラス越しにお互いを見ながら、ほぼ同時に4杯目のジョッキを飲み干した。




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