「見えない「季語」のはなし 〜相対性俳句論(断片)」
俳句
季語が、季語であることを規定しているものって何でしょう。
歳時記でしょうか?
歳時記に掲載されていれば季語で、掲載されていなければ季語ではない。
うん、わかり易いです。
こんなにわかり易くていいんでしょうか。
例えば、ある季語が、Aという歳時記には掲載されていて、Bという歳時記には掲載されていないことがあります。
その場合、Bという歳時記から見れば、「歳時記には掲載されていない季語」というものが、限定的な状況で発生しています。
つまり「いま手元にある歳時記には掲載されていないけれど、どこか別のところにある歳時記には掲載されている可能性のある」季語、というものがありえるということですね。
この場合の「どこか別のところにある歳時記」というのは過去の歳時記はもちろんのこと、未来の時間も含むことになりそうです。
歳時記に掲載されていることが季語であることの条件であるとすれば、今は掲載されていない言葉が、将来、歳時記に掲載されれば季語になるからです。
ということは、「現時点ではどんな歳時記にも掲載されていないけれど、いつかどこか別のところに存在しうる歳時記に掲載される可能性のある」季語、というものがあることになります。
となると、現時点でどの歳時記にも掲載されていない季語、というものが想定されます。
それは、見えない季語です。
季語としての定義(歳時記に掲載されること)よりも前に、「季語」となってしまったもの。
起源を持たない季語。
うーん、ややこしいですね。
季語って何?
という俳句で頻繁に問われる問いについて考える場合、起源となるすべての季語を掲載した「季語大全」というものが想定できない以上、歳時記は限りなくそのインデックスを増やす可能性があることになります。となると、歳時記には掲載されていない季語、というものも季語としてカウントしなければなりません。
そうなると「季語とは○○○」であるとか、「季語であるかどうかは歳時記に掲載されているかどうかで決まる」というのは難しい、ということになります。
「季語とは○○○」である、という定義は、知ることのできない過去や未来という時間を含んで考えた場合、○○○が「季語」を無限にあふれでてしまうのです。
たとえば「携帯電話は季語か?」という問いが、そのような時間性のなかでは、意味をもたないということになります。「携帯電話」が「季語」であるかどうかを決めることのできる決められた数の「条件項目」を提示することができないからです。言い換えれば、「ある言葉」が、なんらかの条件を充たした場合に「季語」になる、という考え方では「季語」の意味には接近できない、ということです。
では、どのように問いを立てれば、僕たちは「季語」の意味に接近できるのでしょうか。
実は、よくわかりません。だって、そのような「季語」は見えない「季語」なのですから。
けれども、ひとつだけかろうじて定義できる問いがあるように思います。それは「何を、季語と呼んでいるか」という問いです。
いわば「季語」を定義づけるよりも前に「季語」は存在していて、そのことが、俳句をつくる上でどのような意味をもっているのか。
有季の句、無季の句、と呼ばれるような作品があるとき、そのことについて、僕たちが「季語」と呼んでいるものが、どのように働きかけているのか、という問いです。
俳句に「季語」が必要か、必要でないか、というような政治的な議論ではなく、誰にも見えない「季語」が存在していて、その「見えなさ」が、いかに俳句の意味を豊かにしているのか、という問いこそが、実は僕たちが是非とも聞きたい問いなのではないかな、って、思うのです。
それは「季語」に限定されない、俳句そのものが「見えないもの」を詠むことが可能な、不思議な形式をもっていることを暗示していて、僕たちは、そのような不思議さをこそ俳句を読むことで感じ取りたいのではないでしょうか。

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