国は、ICTが世界のかたちを変えつつある中、新たな教育のストラクチャーをつくるという目標で、「未来の教室」というプロジェクトを進行させつつある、という話を聞いて、またどうせ予算の無駄遣いをするつもりか、と思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。
なぜかと言うと、そのプログラムの胴元は、文部科学省ではなく、経済産業省だというからだ。
経済産業省が「特区」制度を利用したりして、他省庁の縄張りに侵入し、役人同士の小競り合いを生んだりしているのが、安倍政権のひとつの特徴だが、教育のあるべき姿、という文科省の核心的な利益部分に経産省が斬り込む、というのは、なかなか凄い。
文科省自身も、通称「柴山プラン」なるものを出しており、そこでは教育現場にICTの技術を導入する、というようなことを言ってはいるが、しょせん教室に教壇があって、教師が生徒にものを教える、という基本的に大きく間違った教育構造は、まるで変っていない。
しかし、経産省的には、生徒個人個人のストリーム化ということをやって、能力のある個人をいかに育てるか、ということを主眼にしているように見える。
おそらくこれは、産業界の方から、日本の教育制度から押し出されて来る新入社員のレベルが低過ぎて、中国人やインド人の若者たちから大きく立ち遅れている、という現実に強い懸念が示されていることに対する、経産省からの反応なのだろうと思う。産業界としては、文科省にいくら言っても全然危機意識が共有されないので、仕方がないので経産省でやってくれ、ということであるのだろう。
そんな経産省の「未来の教室」ビジョンを見てみると、[ギフテッド][2E][発達障害]という括りのグラフが出ていた。これは、何かに尋常ではない能力を持った子、発達に支障がある子、そしてその両方を併せ持つ(twice-exceptional)子などをいかに育成するか、ということである。こういう子たちは、誰でも平等主義の、現在の学校教育からははじき飛ばされているような子たちである。しかし、経産省的、産業界的に見れば、こういう子たちこそが、イノベーションを惹き起こす原動力になるのであり、皆と仲が良く、誰でも分かる授業内容を普通に理解できるだけの能力しかないような凡庸な子たちとは別ルートをつくって、特別に育てる必要性が特に高い子どもたちである。
そういう子たちを特に優遇することによって、人と同じことはつまらない、恥ずかしい、情けない、人と違うことこそが誇らしい、という価値観の転換を図ることは、今の日本にとって特に必要なことだ。
人と異なれば、それだけで抑圧をされ、ストレスを受け、ハラスメントの対象となる。そういう日本社会が、どれだけ経済社会に損害を与え、成長のブレーキになっているか分からない。
個々人に合うか合わないかなんて関係ない。お上の教育を一律に受けることこそが教育の本質、というとんでもない時代錯誤がいまだに日本教育の主流である。経産省のこのプロジェクトがきちんとした科学的な検証を終え、いよいよ実施する、ということになったら、省庁を再編して、文科省はお取り潰しをし、経産省が所管する教育局が学校行政を所管するのが合理的であろう。文科省の中でも、そういう新たな理念に共感できるセンスを持った者はそこに異動すれば良く、そうでない者は早期退職するしかない。
それは早ければ早いほど良く、子どもたちが文科省の古色蒼然たる教育行政の犠牲となり、日々、ムダな苦行を教師も生徒も押し付けられている現状は、早晩否定され、終了させなければならない。

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