生存者7名、死亡者7名、不明者3名、がその結果だった。
情報の一部には、人質に爆薬を装着させた、というものがあったから、不明者が多いのは、身元確認すら不可能な状態になった、ということだろう。
記者会見に臨む菅官房長官の姿がNHKのニュース映像に出て来たが、精気のない感じで記者会見に応じていて、そこには、自国の国民が犠牲になった、という事実に対する何の感情も見られなかった。お悔やみ申し上げます、ということなのだったら、これは政治的な事件ではなく、交通事故か何かだったとでも思っているのだろうか。
怒りがねえのか、テメエ、と思う。
サラリーマンは、仕事があれば、現場に行く。行くとこが悪かったね、という話ではない。日本国民が行く先々で、その安全が確保されることは、政府として果たすべき重要な責務である。
アルジェリアにも大使館と総領事館がある。彼らはその管轄する地域で自国民の安全を守ることが出来なかった、という最も深刻な業務の不履行を深く反省する必要がある。そもそもマリが内戦状態となり、フランスが軍事介入した以上、北アフリカの事情は流動化している。そこでこうした事件があった以上、しまった、やられた、という感情的な反応があって当たり前ではないか。しかるに、彼の数日間の記者会見は、「情報が錯綜している」が「さぞかし無念だったと思う」に変わっただけで、日本国政府が何をしたかったのか、自分の責任をどう思っているのか、についの言及は一向にない。
事実は、彼らにとって、北アフリカ情勢は、意識の埒外にあって、そこで何がどうなっていても、まるで気にしていなかった、ということだろう。その意識の範囲は、尖閣、竹島どまりだったと言うことだろうか。
9・11の時だって、これはアメリカが対応すべきことで、たまたま邦人が犠牲になっていても、それはごく少数だ、というのが日本政府の態度だった。当時の在留邦人であった我々には、領事館から別段何のメッセージもありはしなかった。
現実的に考えて、自分の生命を守るためにも、我々は積極的にイスラム教徒が現在置かれている立場を改善させる必要がある。彼らはユダヤ教徒ともキリスト教徒ともうまく行っていない。言わば揉め事の連続である。その理由は、それらの宗教がいずれも未成熟だからだ、と言うに尽きる。アブラハム、イエス、そしてムハンマドが、平和を目指さなかった、ということはない。むしろ彼らは人類に平和をもたらすためにその人生を捧げたのだ。それなのに、彼らを信じる者たちが、逆に平和を攪乱し、無辜の生命を奪う暴虐を働くのは、宗教が神の啓示によって働くものではなくなってしまい、宗教組織が自分たちの教団の利害を極大化する、という極めて人間らしい欲望に忠実な働き方をするようになってしまったからだ。
だから、宗教は危険なのだ、というのだったら、それは唯物思想というものになり、その最も純化した形態は、共産主義だ。だが、共産主義が真に脅威だったのは20世紀の話であって、我々人類にとって、共産党はもはや過去の遺物でしかない。
ならば、我々は何を信じ、どう生きるのか。そのテーマを抱えて、積極的に世界に向き合わない限り、我々は、聖戦を戦う暴虐な連中のとばっちりを受けて、いつまでも被害者の立場に立つに過ぎない。イスラム教が目指すもの、その行く手に何を求めるのか、そういうテーマを持って、ユダヤ教でもキリスト教でもない仏教などの宗教集団は、これからイスラム教との共存、融和を進めるべきだろうと思う。だがおそらくそれも虚しい空想でしかない。仏教もまた激しい宗門対立でその発展の道を自ら閉ざして来たのだから。
もはや、人間には自己解決能力がない、となれば、アラーご自身が登場するしかなくなるのだが、歴史は終末を迎え、その時、懊悩ばかりの現世は、まったく新たな世界へと変貌する、というのがイスラム教の教えるところであるから、今はまさにその預言が実現するのを待つしかないのかも知れない。

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