サッカー日本代表、ワールド・カップで16強入り、ということで、日本のメディアは大騒ぎである。どこの国でもそうであるように、サポーターというのは、ひどくワガママな連中で、自国の代表が対外試合で負ければ容赦ない批判をぶつけ、勝てば大喜び、という具合で、まことに身勝手な限りである。
それにしても、この四半世紀における日本サッカーの「進化」ぶりは驚くべきものである。だが、どんな不思議なことにも、それは奇跡が起こったためではなく、そこにはきちんとした理由と根拠とがある。
まず、この進化を引き起こした重要人物として、三浦知良氏を挙げることが必要だろう。彼は現在も横浜FCでプレーする現役のプロ選手なのだが、彼こそが、日本のサッカーをガラパゴスから引きずり出し、それを世界へと押し出すための最初の一歩を踏み出した人物だ。
彼はもう40歳を超えているはずだが、その最初の一歩は、彼が中学生だった頃にある。中学3年の時、高校受験を控えて、自分の志望校を書いて出せ、と担任に言われて彼が書いたのは、「ブラジル」だった。それを見て、担任が激怒したのは言うまでもないが、彼の志望は、本当にブラジルに行ってサッカーをする、ということ以外にはなかったのだから、本人は、ただ正直なだけだった。
現に、高校には一年通っただけで、この高校生は、本当にブラジルに行ってしまう。そして、ブラジルでプロのサッカー選手になり、さまざまなチームに所属する。そういう彼が日本に帰って来たのは、日本にもプロ・サッカー・リーグが結成されることになったからだ。
読売ヴェルディに所属した彼は、そこでブラジル仕込みの高度なサッカー技術を見せる。それと同時に、彼は世界で通用する『個人』になる、という生き方をサッカー選手やサッカー少年たちに見せたのだ。おそらく、彼の功績として、技術を見せたことより、生き方を見せたことの方が、より重要だったと思う。彼は、日本の「体育会系」とは全く違う育ち方をしたために、おしゃれなスポーツ選手、という新たなジャンルを開拓した。それも、意表をつく斬新な着こなしをして、周囲を驚かす、というような。
そういう彼のサッカー技術と生き方をともに受け継いだのが、中田英寿だっただろう。彼もまた、世界を目指して日本を飛び出し、同時に日本代表選手として活躍した。三浦と違ったのは、三浦選手がブラジル仕込みなのに対し、中田は欧州仕込みということだ。
三浦、中田という系譜の先に、現在のサッカー日本代表がいる。多くの選手が若くして海外のチームに飛び出し、はじめから世界標準を目指してサッカーをして来た。日本にいる選手でも、海外組と一緒にプレーすることで、世界の強豪選手のことを深く知り、彼らと勝負する根性を身につけた。
静岡県の高校生が、東京に出る、というならまだ分かりやすいにしても、ブラジルに行こうと考え、実際に行き、そこで成功する、というひとつの生き方がなければ、日本のサッカーはこうなってはいなかったと思う。そして、彼は今なお現役選手としてプレーし続けている。もはや日本でトップ・クラスの実力とも言えず、ほとんど注目もされない一介の選手でしかないのに、それでも彼は悪びれず、サッカー・ボールを追い続けている。それもまた、ひとつの生き方として、しっかりした伝統を日本のサッカー界に残し続けていると言うべきだろう。

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