先回の当記事に対して、QMSS殿より、中世ヨーロッパでは「私的制裁」が制度化されていた、との懇切なご指摘をいただきました。御礼申し上げます。
確かに、中世の騎士物語では「決闘」は普通のことであり、と言うか、恥辱を受けた相手に対し制裁を加えないのは、腰抜けであり、日本でも、親の仇に対しては「あだ討ち」を仕掛けるのが、孝行者のあるべき姿だった。また、QMSS殿ご指摘の通り、国家間の戦争と言っても、実態は、国王同士の私的復讐の繰り返しという趣があったことも確かだろう。
現代、それはどうなっているかと言うと、自分がアラブ世界を徘徊していた30年前でも、たとえば、市場で特定の女性(もちろん、黒いベール着用なのだが)に目を留めることは危険であるとされ、その理由は、そのことが、彼女の夫が自分を攻撃することを正当化するからだ、と教えられた。すなわち、「オレの女房にガンつけやがったな」という主張は、正義であると考えられ、その相手をボコボコにすることは、男らしい行為とされる。これは、日本だと、ヤクザ間でのみ通用するローカル・ルールであろう。
良く考えると、中世ヨーロッパでも、中世の日本でも、私的な復讐が正当だとされるのは、騎士あるいは武士の倫理であって、はじめから武器を持っていない荘園の百姓の場合は、それとは異なる論理が用意されていたと考えるべきだろう。すなわち、百姓同士の紛争処理は、領主の専権であって、百姓自身に自決権はなかったと思われる。
そういう具合だったものが、近代国家の発生とともに、私的紛争処理が次第にご法度となり、それは司法権を持つ国家の専権事項になった。ただし、国家にどこまでその権利を渡したのか、と言うと、その境界線は、現代の刑法理論では、「正当防衛」になる場合だけは、個人的に暴力をふるって相手を傷付けたとしても、法律によって守られることになっている。(この「正当防衛」のために銃器を使用するのが当然かどうかというのは、歴史的な経緯によって異なることになるが。)
そういう訳で、国家内部における私人間の紛争解決は、個人を超える超越的な権力としての国家が、専門的にこれを扱うことになったのだが、残念ながら、それは国境線の内側だけだ。国家同士の紛争となると、実態は、いまだに無法地帯である。
国連にその役割を期待する、というのも、その設立の趣旨からするとあり得ることだが、現実の国連が、世界の平和に寄与する役割は、残念ながら限定的でしかない。だから、安全保障は、あくまでもそれぞれの国家が私的に担保せざるを得ないことになり、どうしても軍事力が必要だ、というのが、21世紀初頭の我々の姿である。そこでは、軍事同盟という関係もあるけれども、国民の安全を最終的に保障するのは、自国の政府なのであって、同盟国の軍隊ではない。同盟関係がいかに裏切られやすい、もろいものだったかは、日ソ中立条約があっさり破られ、宣戦布告を受けた経緯を見ただけでも、明らかである。
結局、国家間には、摩擦が起こるものであるし、そのエネルギーの暴発を外交的に抑える努力をいくらしたとしても、根本的な解決にはなり得ない。所詮、政治や外交にできることには限界がある。地球規模での平和を実現しようとすれば、他国家や他民族への恨みや憎悪を別のエネルギーに昇華させ得る、精神的な意識の転換が必要であろうと思う。そういう人類規模での精神の変革こそが、軍事力や外交パワー以上に、世界を変革するために、必要とされていると思うのである。

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