睡眠を確保しても、翌日疲労が残っているのは、疲労が蓄積して、回復しきっていない状態などではない。
最近は、特に睡眠時間を削るほど多忙な状態ではなく、妻によく寝るといわれているほどだ。
ところが、疲労が蓄積している。
眠る前以上に疲労しているというのが今日の印象である。
睡眠中に私は何かをしているのではないかと思えるほどである。
真空という場、縦波という情報、2方向からの情報というシステムによりすべての問題が解決するということが実現可能なものであり、すでに研究している人々がいることを知った。
誰からの知識というわけではなく、私自身が智慧に気付いた内容を証明するかのように多くの研究と接する機会が増加したのである。
私は、こうした科学的な生活の新しい基盤となる対象を研究しようと考えたわけではない。
こうした基盤の上での生活、すなわち人々の思想というものがどうあるべきなのかを考えたいと思っただけのことである。
新しい基盤である科学を基盤として実現していくのは、私の役割ではなく、玉氏の役割である。
あくまでも私の役割は鏡としての役割である。
永遠に見えない自分というものを探している意識自体が「自己」であるということに気付いた。
非自己から必要されているという事実が「幸福」の根元であるということを確認したばかりである。
これは、「幸福は存在するが、不幸は存在しない」という「幸福もなければ、不幸もない」とする結論と反するものである。
「善悪」、「高低」、「広狭」、など相反する言葉は、同じ対象の見方が違うだけという考え方を理解していたのが、ようするに、「善は存在するが、悪は存在しない」というようなものである。
基本的には、不必要なものはまったくないということなのである。
悪と称されるのは、もっとも現象面では確かに「悪」ではあるが、それが起こったこと事態は「必要悪」であり、何かの全体性から見る「導き」などが存在しているのである。
「そう考える」のではなく、「そうなのである」ということなのである。
貧困に負けるのではなく、貧困をバネに向上していく、コンプレックスをバネにのし上がっていくというような「考え方をかえる」ではなく、実際にそうなるように決定しているのである。
バネにできない人生も重要であり、バネにできた人生も重要なのである。
まったく不器用な人のように、すべての選択を一つずつ確かめながら生きているのである。
こうした思想的なものを私は極めなければならないのであるし、それが新しい科学という基盤が確立した時に人々を導いていかなければならないのである。
少なくとも、そうしないと、新しい科学がそれこそ最終兵器となってしまうのであり、影響が目に実際見ることのできないものである以上、使用者が戸惑いなく使用してしまうことを避けるためである。
無限エネルギ−の確保、核廃棄物の安全な崩壊、地球環境の適正化、無公害移動手段の確保、他の星の環境適正化と安全な移住、環境汚染の清浄化など、今抱えているすべての課題がすべて解消されるだけでなく、実現すればきわめて安価な手法なのである。
恐怖や貧困、争いなど現代科学が生み出したすべてのひずみが解消すると同時に使用を間違えば、人々は再び猿へ退化する、もしくは、すべてが奴隷となってしまうのである。
私は後者を人々が選択しないように導くことが、人間としての本性をすべての人々が気付くように導くことが役割なのである。
しかし、これまでの賢者のように、聖人のように、「神」として扱われたのでは、特別な人として、人々が目覚めることはできなくなってしまう。
自らの意志で前者を選択することでなければならないのである。
そうでないと、どこかに後者の選択の意志が残されるのである。
縦波を新しいエネルギ−としか見ない思想では、世界は崩壊へ向かうしかないのである。
縦波はあくまでも、思想であり、精神であり、意志エネルギ−であり、間違った精神では、究極の兵器となってしまうことを理解しなければならない。
また、この物質の世界こそが虚像であり、虚像と考えている世界こそ実像である考えなければならない。
真実は両者とも実像であり、虚像なのではあるが、あまりにもこの世界が実像とする意志が強いため、この世界を虚像と思ってちょうどよいほどである。
新しい科学は、「一」という安定した社会を形成させようとする宇宙の意志に従う意思で使用しなければならないのであり。どとらがかけても人類の社会は崩壊し、次の生命にその場を明け渡すしかないのである。
何度も気付いて、何度も失敗を繰り返した歴史をこの時に終わらせるためも私が現れたのであり、それが役割なのである。
このような妄想といわれそうな思考を夢というこの世界からすると虚像の世界で考え、検討してきたのだろう。
新しい科学を理解できそうにもない多くの人々に、新しい科学と精神が一体のものであることなんて理解できるはずがない。
当然私にも、通常の状態であれば理解できない、自己内部矛盾を生み出してしまいそうなことではあるが、虚像の世界では真理として根付き、物質の世界の私はそれがすでに真理であることを基盤にすべてのことを考えている。
仕組まれたと考えるか、導かれたと考えるか、あくまでも自己の発意として考えたとするかは、すでに何の問題も提供しない。
そうなっていること自体が重要なのである。
剣氏は私を師匠と酒の勢いか呼んでいたが、私以外にも座禅を組みに行っている御坊を師匠と呼び、もしかしたらその御坊よりも私の方が精神世界上では勝っているかもしれない、ということである。
もとより、そんな比較するようなことに意味があるとも思っているわけではない。
私を精神世界での師匠と呼ぶからには、何か私と剣氏との間に関係が成立しているのであろう。
私には、ニューサイエンスを現実のものにするという科学的な技術も知識もないし、宗教的な特別な思想や手法もない。
ただあるのは、両者が同一のもので、表現だけが違うということであり、何も矛盾のない世界が広がっていることである。
さらに、サイババやその他の超能力者のように具体の神秘現象を起こす能力さえもない。
この今の疲労は、新しい能力が生まれる前兆なのかもしれない。
流れ出る、生まれ出るはずのエネルギーがまだとどこおっていて、円滑な流れとなっていないのかもしれない。

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