嫉妬とは他との相対的な差に対する自我の反応であると考えていたが、それだけではなく、理想的自我との差に対する自我の反応が正確であるらしい。
自己の所有物であった物が他に奪われてしまい、自己の領域内に空洞が発生し、理想的自我と異なる状態になったことへの反応として嫉妬があるのである。
嫉妬の対象は社会であったり、人であったり、環境であったり様々なものであろうが、嫉妬とはこういったもののようである。
理想的自我が「存在し続けようとする意志」としての「自由」における「自己」であるとすれば、理想的自我に欠けた状態は、言うなれば不完全な自己であり、満足のいく、拡大し確固たる存在ではない自己は、嫉妬の対象となる。
私の願いは現世利益菩薩である。
矛盾に聞こえ、慢心に聞こえ、誇大妄想に聞こえる願いである。
願い、すなわち欲があるから達成しない苦しみがあり、ルートが見つからないためあせりの苦しみもある。
達成するまでは過程とあきらめずがんばるということもあるが、見通しのたたない、方向性も定まらない行為は、やはり苦しい。
執着するから苦しいのであるというのも真理ではあるが、目指すもの、現状を破棄することが条件であるならば、現代人を救うことなど難しい。
所有すること自体、それを願うこと自体とは無関係に「楽」が存在することを現世利益として実現させたいのである。
精神世界では願うままに実現する。
それが本来の世界であり、現実世界にあっても、思うがままであり、その意味で「所有」自体に是非がないことを知らしめたい。
それが願いなのであるが、そうはならない理想的自我に自我が嫉妬しているのである。

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