誰もが知り、誰もがアッと驚いた一句。このあからさまな飢餓。女としての恨みつらみ。剥き出しの自我。まだ男社会が支配する川柳にあって、男好みの花になどなれる筈もなるつもりもない新子のこの一句は、伝統のぬるま湯にすっぽりと肩まで浸かり、粋人を気取っていた男どもの脳天をふりおろす斧の一撃であったに違いない。あるいは「いやあね」と眉をひそめる女たち。新子はたちまち中傷誹謗の渦の中に突き落とされることになる。
だが新子はいわれなき中傷誹謗に怯むほどヤワではない。それどころか「川柳によって開放される私」から「川柳によってしか解放されない私」へと意識はさらに覚醒し、悪意に満ちた言葉でさえも「すべてをバネにする」という強靭な精神の自覚を果たすことになる。この一句に翻弄されたのは新子ではなく、したり顔で好色な解説をしてみせる評論家気取りの一部であって、新子はすでにバカな男をあざ笑うように、颯爽と句の向こうに姿を消していた。
川柳は男の論理によって成り立つ文芸であった頃、その閉鎖性にもめげず、文芸性をめざし、川柳に女性としての自覚を打ちたてようとする作家も少なくは無かったはずだが、彼女たちは「女らしさ」という曖昧にして抽象的な概念を川柳に持ち込むことが精一杯で、女としての歓び、哀しみ、痛みといた感情を切々と訴える詠嘆は、「女らしさ」の発露として、当時は充分に新鮮であったに違いない。
だが、男と女の決定的な性の違いを見据え、そこから新しい世界に自己を投影する革新性を目指した女性は新子以外にはいなかった。

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