第五回火の木賞を受賞したのは昭和62年。
父を背に担いで帰る芋畑
夜桜を見にいったまま帰らない
遠景の橋が崩れるおもしろさ
火葬場のボタン前にたたされる
鳥の貌してくらがりの鳥になる
仏壇の中をきれいに拭いておく
葬式に人がくるくる花日和
見たことのない猫がいる枕元
晩秋の石屋は石を彫っている
陽光さんさんと大きな箱一つ
その授賞式は昭和62年、「川柳展望50号福岡大会」{セントラルホテルフクオカ}であった。なぜかこの日は開会あいさつもさせていただいたいる。
だが受賞後のスピーチでまた私はへまをやるところだった。
一応考えていたカッコのいい謝辞を述べて、結びにアドリブで「毎回の投句に○×だけでなく、真っ黒になるほど感想・批評を書いてくださった新子センセイの励ましに心から感謝いたします」・・そして万雷の拍手を浴びながら・・「真っ黒に書いてもらったことはないなあ」とぼんやり考えていた。でもまあ謝辞たから多少は許せ・・。
ところがその後の「新子何でも答えます」のコーナーで早速これに噛み付いてきたのがいた。忘れもしない京都の奥山晴生さんである。それもタヌキのような顔を紅潮させた独特の京都弁で・・・
ワテも毎回熱心に投句してまっけど、真っ黒になるほど書いてもろとことあらしまへん。それは才能のあるもんだけでっか・・」
ウワッ・・また勘当されるがな・・と私は俯いていた。
が新子主宰は「私は誰にも平等にしています。真っ黒に書いたと言ったのは、言葉のアヤであり、もしからした明さんの願望がつい言葉としてこぼれたのかもしれません。私は彼に冷淡にした時期もありましたが、彼はそれによく耐えてくださった。そして今、彼の才能は花開いたのです。彼の・・真っ黒に書いた・・を晴生さん、どうぞ理解してあげてくださいと笑いながら私を振り返った。
その夜のパーティで私は一人歌い、踊り、はしゃぎまわった。今より20若かったころである。

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