自分のことはすべて分かっている、と思っている人は多い。しかし、本当は自分という固体の分かっているのは30%ぐらいで、後の70%はまだ自分でも分かっていない闇があるという。
私の川柳はその70%の闇を言葉でまさぐっているのかも知れない。突然まだ分かっていない「私」が言葉にのって現れる。そんなときには自分の川柳に自分で驚き、自分で自分の川柳の謎解きをする。具体的に言えば自分の川柳に読み手となって向き合うことになる。
しかしこれは私の特性ではなく、「思いを書く」ということはそういうことではないか。自分の表面に現れる日常の喜怒哀楽を書いて他人に読ませて何になる。感情のままに書いて、共感されて自己陶酔して、その先に何が見えるのだろうか。
よく句会などで「石部さんの句は難しい」と言われる。決して難しいことを書いているわけではないのだが、喜怒哀楽の共感を求めるところで書いていないのだから、それを求める読者には不向きなのだろう。そんなときには「自分でもよく解らないのです」と答えているのだが、中にはこれを侮辱と受け取る人もいるらしい。しかし、喜怒哀楽に自己陶酔している人に、70%の闇をお話しても通じないしなあ。

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