机のまわりを整理していたら、こんな新聞の切り抜きが出てきた。『俳人の角川春樹氏が新たな文学運動として、「魂の一行詩」を提唱しはじめた。あえて「俳句」の名称を捨てて、何を追及しようとしているのか』。
どうも俳句との違いがよく解らないが、運動の原動力は魅力を失っている俳壇への不満からのようだ。技術論ばかりが横行する批評の貧しさによって、小さな「盆栽俳句」になってしまったと指摘しているのは理解できるが、例句とする「生きるとはすなはち詩(うた)や天高し」「まだ生きるつもりで起きる昼寝覚」などが俳句とどう違うのか。
「名称を変えることによって、若い世代も含めて入ってきやすい」とも言っているが、はたして若い人たちにこの例句がアピールするとは思えない。看板を変えても店には見映えのしないものばかりでは、やがて飽きられてしまうのがオチ。最後に「正岡子規以来の革新運動ですよ」と自負するところに、実は俳壇に居場所のない角川春樹の本心が見え隠れしている。
正岡子規は多分、革新運動の先駆者とは名乗らなかったはず。まあ・・よその畑のことだからいいか。

0