現代川柳では、言葉派とかコトバ川柳とかいうことの定義自体が曖昧です。同じように、私性川柳ということの定義も曖昧です。表現である限り、私を必ず語っているはずだから、私性川柳ということ自体おかしな定義のはずです。同様に、すべてコトバで語られているし、意味を持っているはずだから、意味派とか言葉派とかいう定義もおかしいはずです。でも、流通してますよね。それを整理し、定義する作業から始めなければならないんでしょうね。
2011・1・21の記事について上記のメールをいただいた。「言葉派とかコトバ川柳とかいうことの定義自体が曖昧です」。確かにこれから議論を深めていくことが大切だと思います。ただ「私性川柳ということの定義も曖昧です。表現である限り、私を必ず語っているはずだから、私性川柳ということ自体おかしな定義のはずです」については、なぜ私性川柳ということばが定着したか、その歴史を辿ることが必要です。
古川柳の例をもちだすまでもなく、もともと川柳は句の中に「私」が存在しなかった、あるいは「私」を必要としなかった。書き手の「私」は句の外にあって、面白おかしく、あるいは辛辣に他者を捉える文芸であった。しかし、詩の思想が導入された大正の時代、田中五呂八のの時代と思われますが、その辺りから川柳も「私」を書くものという思想が生まれた。その頃には「私性川柳」ということばも必然性があったと思っています。しかし現代ではあえて私性川柳という定義は必要ではなくなったというところではないでしょうか。

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