結論から先に言うと、同人誌、結社誌、柳誌などへ作品を発表するという行為は、批評の場に作品を提出することであり、自らすすんで批評を求める意思の表明である。どのような批評を受けようとも、その批評を拒否することは出来ないのである。
川柳に限らず短詩文芸は、書き手と、その作品に鋭敏に呼応する読み手によって作品世界がより広がってゆくものであり、作者の想いを託した作品は、それを受け取った読み手によって、初めて完結した一句になる。つまり、よい読み手に巡り合った作品が、さらに磨かれ、屹立し光彩を放つことは明白な事実である。
作品鑑賞にあっても、常に自らの位置を明確にし、するどい批評性を持ってその任に当っている優れた読み手も決して少なくはない。だが、一般的には作品を褒めることのみに終始して、物分りのよい読み手になりたがる。あるいは読み手であると同時に書き手でもある我が身への保身を第一として、他者の作品には傷をつけてはいけないという考えに支配されてしまった「読み」も少なくはない。
勿論、感銘の深い作品に出会ったとき、その感銘をあらわす賞賛の言葉は大切にしなければならないが、異質を拒み、類型化してゆくこと、他とおなじ書き方をすることに安心をしてしまう仲間文芸の中にあって、褒めあいに馴れてしまった作者の側は、時に厳しい批評に晒されるとうろたえ、たちまち萎縮してしまうか、逆にこっけいな程怒りをあらわにする。
その挙句「何故わざわざ悪い句を(批評の対象として)採り上げる必要があるのか」「つまらない句にも、つなぎの句、捨て句(次の句を引き立てるため)としての価値はある」などと非論理的で感情的な反論を試みたりする。少し冷静に論理性を回復すれば、そのような虚しい反論は、作品発表そのものを徒労に終わらせることに気づく筈だし、書き手として当然持たなければならない意識の欠落に気がつかなければならないだろう。(再録)

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