
端正な文体が、100年の時代を交錯させながら、虚構の世界を史実のように丹念に積み上げてゆく。長編を一日で読んだのは初めてだが、かって皆川博子の『死の泉』を読んだときのように、あるいはそれ以上の読み応えであった。
「あってはならぬ事態は極力引き起こさない。いや、決して引き起こさない。聡史のそんな慎重さがあったからこそ、互いの家庭を破たんさせることなく、こんな逢瀬が続いてきた。」中年の建築家と、ヴァイオリンを弾く音楽家、亜紀の慎重な関係が、少しずつ変化しはじめる。
そして「人目のあるところでは、決して二人であったりしなかった聡史が、頻繁に展覧会や食事に誘うようになった。(誰かに会っても)少しの動揺も見せずに亜紀を彼らに紹介した。そこには互いの世間体と保身のために持ち続けていた、あの徹底した用心深さはどこにもなかった」。
「高価な贈り物よりも、熱い思いを書きつづった手紙よりも、物怖じすることなく二人の関係を公にされることのほうが心に響く。たとえそうすることによつて、聡史だけでなく、自分自身の身が危うくなることがわかっていても。自分は、彼とともに破滅することを望んでいるのかも知れない、と亜紀はときおり思う」。
勿論、二人の関係とその背景は、これから始まる物語の導入にしか過ぎないのだが、ある日、「絡み合うようにして、破滅の淵に落ちて行く、甘美で煌びやかなイメージ」のともなうギリシャ旅行に誘われる。
そしてギリシャの楽器店で、亜紀は聡史から一挺のヴァイオリンを贈られる。このヴァイオリンは二十数年前、ギリシャのある孤島から出航して間もなくに沈没した船から甦ったものだという。ギリシャ旅行は孤島に渡りヴァイオリンの出生を確かめるものであったが、島に渡った二人はヴァイオリンにまつわる恐ろしい物語に遭遇することになる。
長い歴史のさまざまな権力者に翻弄されてきた島には、いまは跡かたもない『死都』(ホーラ)が存在し、旅人たちの意識の中のその『死都』は今も甦るという。
「この町の混沌と退廃が人を惹き付ける。人々は祈りながら娼婦と交わり、美しい詩句を吟詠したその口から、悪魔のような罵り言葉、卑猥な囁きを発し、妻たちはどこのだれともしれぬ、詩人や、絵描きや、建築家や、ときには殉教者の子供を産む」「町を流れるありとあらゆる汚物の臭いを、貴婦人や娼婦の体から発する香水の香りが覆い、入り混じり、心を騒がす。ひどく不道徳な、えもいわれぬ空気が教会の至聖所にまで立ちこめる」。
東洋からやってきたという二人の、亜紀はその意識下に『死都』の賑わいを聞き、ヴァイオリンに彫刻された聖母マリア、あるいはいびつな女の顔ともとれる白い影に襲われる。そして悲鳴とともにすがりついた聡史は、予期せぬ(あるいは予期された)交通事故を起こし入院する。しかも嵐の海は亜紀と聡史を孤島に閉じ込めてしまうのだが、そこから先をもし書けば、『死都』(ホーラ)が私の意識の中に入ってこないとも限らないので書かないことにする。

5