壮大な(でもないか)夢を掲げて、夢からもっとも遠いおばさんたちと1人の法螺吹きの勉強会が始まった。いや、まんざら法螺でもない。この中の誰か1人は確実に目的を手にするはずだ。その戦略は立ててある。
まず、向こう1年は川柳大会に行かないことを約束してもらった。無駄な言葉や、物欲しそうな言葉を身につけて欲しくない。私が選者になる大会にも禁足令をだした。もともと1人を除いて、大会に興味のない、大会に行くほどの実力もないメンバーは抵抗なく受け入れてくれた。そして「今日から日記川柳を書いてください」と提案した。5人は顔を見合わせた。日記川柳とは平凡な川柳、下手の代名詞ぐらいは彼女たちも知っていた。なんでわざわざ日記川柳なのかと訝るように私をみた。
確かに日記川柳とは下手な句の代名詞かも知れない。だが日記とは、自分の記録として書くもの。生活の記録であれ、心の記録、生の記録であれ、人に読ませるという前提のない、自分だけの世界がそこに現れるはず。日記はあなただけの川柳の宝庫になるかも知れない。手垢まみれの詩的な言葉は捨てて、実感から得た言葉で日記川柳を書いてください。
しかしこれは想像以上に忍耐のいる作業になった。細かい進め方はもう忘れてしまったが、「お隣のベンツが今朝も邪魔になり」「隣から朝のトマトのおすそ分け」といった句を辛抱強く読まなければならない苦痛。単調な生活から生まれる単調な川柳を作り続けるのも苦痛であったに違いない。1人が脱落した。
もっと脱落するかも知れないがそれでもよかった。1年に1人しか受賞できない賞を目指しているのだから、極論すれば1人が残るだけでもよかった。当時の資料が見当たらないのは残念だが、二年目ぐらいから日記川柳にかすかな変化が見られるようになった。「薬屋が来てお茶漬けを食べていき」。そして、年嵩の1人が「流氷を見に行こうかと誘われる」を持ってきたとき、私の指導が間違っていなかったと確信した。この句いいよ、はじめて褒めた。年嵩は喜ぶふうもなく「そうですかあ、そのまんまですよ」と半信半疑の表情を隠さなかった。
4人に県文学選奨への応募を勧めた。
当時の数年の受賞作の傾向は、皮相を撫で回す四季の哀歓であり、家族愛、夫婦愛、言葉を飾り立てた命の賛歌であり、病気ものあり、安直な感動に審査員は惑わされていた。道徳や倫理の句は無条件に上位に置く審査員。その審査員を動かすために、あえて川柳を日記の中にカムバックさせ、実感の世界へ言葉を取り戻したかった。それは、食傷気味の手垢まみれの抒情句、観念的な人生句の中では新鮮に見えはしないか。
年嵩の1人が受賞したのは奇跡であったが、次の年にも奇跡が起きた。甘いメルヘンでいつも私を苛々させるS子には、平面的な句に「影」をつけるように求めていたのだが、わずかに「ものの影」「あわれ」が書けるようになったS子が受賞したのである。
一番てこずったU子は、すでにどこかの大会で特選をとった「三日月よ虚像のままで男に抱かれ」を持っていて、この句を捨てるところから始めなければならない。その上で「日記川柳を書け、大会に行くな」という無理難題に彼女は相当悩んだようだが、それでも脱落しなかった。そして、1年を置いてU子も受賞したのである。
ほぼ連続で和気川柳から3人の受賞者を出したことは県下でもかなり話題になった。しかも石部明が指導したらしい、ということで私の句のイメージを受賞句にかさねていたようだ。だが指導とは私のコピーを作ることではない。エッ?これが文学選奨作品ですかと絶句するものも何人かいた。確かに作品としての力はまだ弱い。だがそれは承知で「シンプルな一句」を徹底したことが受賞に結びついたのだと豪語しながら、一抹の寂寥感が私を襲った。
はたしてこれは、長い時間をかけたゲームでしかなかったのではないか。
5人のうち1人が脱落し、3人が受賞した。残る1人に「がんばろうね」を声をかけた。ところが次の年、私が審査員になってしまったのである。「ごめんね、私が審査員のときにあなたは採れない」という私に「いいですよ」と笑顔で応えてくれたK子だったが、それから1年も待たず川柳を止めてしまった。・・気の毒なことをした。
私は呆然として、達成感のないまま「県文学選奨をとる会」を解散した。

1