石川妙西尼に捧ぐ

2009/2/1 | 投稿者: 鹿野苑

徳川家康が若い頃から浄土宗の信仰に篤かったのは有名な話だが、一向一揆に苦しめられた大名のご多分に洩れず浄土真宗は好きではなかったというのも定説になっている。一揆平定後、徳川領では20年に渡り浄土真宗は禁止となっていたのだから。

石川妙西尼(妙春尼という説もある)という人がいて、この人は家康の母の妹、つまり叔母にあたる人だが、浄土真宗の熱心な門徒だった。この人の嘆願によって徳川領内での真宗は解禁になる。宗門にとっての大恩人である。

この妙西尼の嘆願による解禁が織田信長の死後すぐであることを考えると、家康は本当にそこまで真宗を嫌っていたのかどうかという疑問が湧いてくる。つまり、石山本願寺と泥沼のごとき長期戦争を戦った同盟者・信長に遠慮した結果の禁止措置ではなかったか。なにしろ名目上は同盟でも実質は信長は家康を支配していたに等しい。信長の命令で家康は自分の長男を切腹させているくらいだから。

「家臣というより親友」といわれた本多正信は三河一向一揆の時に信仰ゆえに家康を裏切り一揆に加担しているが、徳川家に復帰したあとも信仰は捨てず、今も墓は西本願寺にある。本当に家康が真宗嫌いだったら、そんな人間を自分のブレーンにするだろうか?

ただ、好き嫌いはともかくとしてやはり一揆への警戒は終生忘れられなかったようだ。そのため本願寺勢力を二つに分けて、西本願寺と東本願寺にしている…というのが従来の見解だが、元々本願寺兄弟の不仲と秀吉の横槍のせいで分裂しかけていたのを家康が承認しただけというのが本当らしい。力を削がれた本家・西本願寺はアンチ徳川で、独立を承認してもらった東本願寺は徳川シンパというのも有名な話だ(幕末になると西本願寺が反幕志士を匿うということが多々あったため、それを阻止するために新撰組がなんと西本願寺内に間借りして本部を置くという荒技をやっている)。ともあれ分裂によって仏門が一揆という戦争をやらないようになったなら、本願寺分裂もそう悪いことではなかったと私は思っている。
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2011/5/21  22:16

投稿者:鹿苑院

後年の家康が松平忠輝などを改易したことを考えれば、わが子といえど為政者の資質がなければ処分する可能性はあるかもしれませんね。それでもやはり、老年になってからの愚痴のことを考えれば信康事件は信長の命令という従来の説を私は支持しようと思います。

2011/5/19  17:19

投稿者:なお

まあ、家康が実の息子を死に追いやったというのを信じたくない気持ちも分かりますが、本当に信長に命令されてやったなら家康が信康を切腹させるまでの2ヶ月の間、信康の身柄を拘束して各地を移動させたり武田氏の勢力範囲に接していた二俣城で武田氏との内通が疑われている筈の信康を切腹させたというのは説明できません。
また『岡崎市誌』に掲載されている史料をみると、信康が岡崎城主になってからの岡崎周辺の地域の統治に関する文書の多くが家康の名で発行されており、信康の名で発行された文書が2通しかなく、家康が大御所として実権を握っていた頃でさえ、秀忠は東国の大名の統制などを行っている事を考えると家康が本来なら信康が行うべき政治的な問題に関わっていた事は信康が例え武将として優れていても領地の統治をなおざりにしたと見なされれば後継ぎとしての資質を問われかねず、親子の情だけで何とかなる問題ではないのでは。

2011/5/18  23:44

投稿者:鹿苑院

その話は聞いたことがありますが、一応本文では従来通りの通説に従って信長の命令による切腹ということで書きました。
実を言うと、その当代記の記述の方が怪しいんじゃないかと思っています。信康は敵の武田勝頼からも絶賛を受けるほどの名将であったこと、後年に関ヶ原の時、「信康がいればこんな苦労はしなかったのに」と愚痴ったこと、酒井忠次隠居の時、「おまえも我が子は可愛いのか」とイヤミを言ったこと、あれこれ考えると、家康には信康を殺す理由も殺したいと思う理由も見当たらないと思うんです。

2011/5/18  20:31

投稿者:なお

あの、信康の切腹についてですが『当代記』という書物では信康が信長の娘婿であるため家康が安土にいる信長のもとに酒井忠次を派遣して信長の承諾を求めただけらしく、信長に命令されて切腹させた訳ではないようです。

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