僕の一念多念論

2022/4/1 | 投稿者: 鹿苑院

念仏者にとって必ず一度は突き当たるのが一念多念の問題である。
たった一度念仏を唱えるだけで阿弥陀仏は救ってくださるというのが一念、何度も唱えて極楽行きポイントを貯めないと救われないというのが多念である。

阿弥陀仏の大いなる慈悲を信じるならば一念の方が理に適っているが、しかし法然上人は一日に六万回念仏を唱えていたという。一念で救われるのならなぜそれ以上唱え続ける? ……では多念が正しいのかと言われるとそうも言っていない。
およそ念仏宗では信と行が二本柱となるが、「信を一念に置き、行を多念に励むべし」という玉虫色の教えだけが残っている。

浄土真宗ではこの問題、一念を唱える気になった時に救いが成立する、その後の念仏は阿弥陀仏への感謝の表現という理論で見事に解決しているのだが、他の宗派の思想も比べてみるとなかなか勉強になる。

いま浄土宗と呼ばれる宗派は正確には鎮西義白旗派を指す。その教えは完全な多念義であり、何回念仏を唱えればいいかはその人の素質によって違うからとにかく命ある限り念仏を唱えまくりましょうという。
僕が最近注目しているのは同じ鎮西義でも名越派なのだが、こちらは一念での極楽往生決定を説く。ただし純粋な一念義のようにその後の念仏をするなとか必要が無いとは言わず、救われた後も念仏を唱えることを勧める。

僕の出した結論は、「一念で往生は決定する。その後の念仏は信の相続のため」というものだ。実はこの結論を出したのとほぼ同時期に名越派を知り、自分の思想とピッタリなので驚いた。
そのうえ名越派は善光寺・聖徳太子信仰とも深い繋がりがあるのだから、ますます僕にピッタリではないか。

名越派と白旗派はかつては激しい論争もしたが、今は合併して一つの「浄土宗」である。名越派とて知恩院や増上寺を本山と仰ぐ。白旗派の思想には賛同しづらいが知恩院や増上寺や徳川家が好きな僕には嬉しい。
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