常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう

2020/8/14 | 投稿者: 鹿苑院

……とアインシュタインは言った。彼は仏教を「現代科学と共存しうる唯一の宗教」と言っていたことも有名である。

西山浄土宗に心惹かれていた時、その宗派のお坊さんに質問する機会を得たので教義を聞いてみたところ、阿弥陀仏の本願とその働きに気付いた後はその人の行動はすべて念仏となり往生の因となるという。
「ではふざけているわけではなく真面目な質問のつもりなので怒らずに答えてほしいのですが」と前置きして、ウンコをしていたり風俗で遊んでいてもそれを念仏と言えるのかと質問してみた。

返事はこうだった。
「私たちは凡夫なので何が本当に立派で何が本当に低俗かは判断ができない。
ウンコをする時に、生理現象としてきちんと体が動くのは阿弥陀仏のおかげと思えばそれも念仏と言えるし、風俗で遊んでいる時も自分は阿弥陀仏に救われた悪人であることを自覚してやっているならば念仏といえるかもしれない」


それを聞いた僕の感想としては、いくらなんでも拡大解釈な気がして西山派から鎮西派に舵を切ることになったのだが、「何が本当に立派で何が本当に低俗かは判断ができない」という考えは浄土宗のみならずすべての仏教宗派に通用する考え方だろう。

しょせん人間の尺度で言う高尚や低俗など仏の目から見れば小さな差異。
それにその尺度は時流によっても変わる。
「天皇陛下のために鬼畜米英を討つ!」という思想は昭和20年8月15日までは多数派の人にとって高邁な思想だと思われていたが、現代でそんなことを言っている人とは距離を置こうと考えるのが平均的な反応だろう。
フォークソングを歌いながら共産主義革命を目指していた学生運動も、当人たちは高邁な理想のために闘っていたつもりだっただろうし社会も一定数それを支持する空気があったが、ソ連が崩壊し中国・北朝鮮の実態が明るみになった今は「恥ずかしいことをしていたやつら」でしかない。
高尚・高邁と低俗の価値基準などかくも簡単にコロリと変わるものだ。これを仏教では諸行無常という。

うちの親はテレビ番組や本などに対して「そんなくだらんもの、そんなつまらんもの、そんなたわけたもの」とよく言う。
それにムッとするたびに僕は上記のような考えが一瞬で脳内を巡るのだが、長々とした説法をするわけにもいかないので結局は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば...」となる。
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