再び鎮西vs西山

2020/6/18 | 投稿者: 鹿苑院

3つ前の記事で鎮西派の二類往生義は法然上人の選択本願の教えとは違うのではないかと書いた。
柳宗悦もその著書の中で


「二類往生」の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものであろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりむしろ西山義の「一類往生」(念仏の業のみに往生を認める)の方が、一段と祖師の元意を発揚したものと思われてならぬ。


と書いている。僕もそう思っていた。

現在は鎮西派の方が圧倒的多数派であり、西山派の10倍ぐらいの大きさがあるが、これは教えが正統であると評価されたからというよりは単に徳川家という巨大な檀家を持っていたからである。

で、西山派を勉強してみたのだが、大意として「阿弥陀仏に一度帰依すればその人の行動のすべてが念仏になるので念仏以外の行も念仏ということになる。だから往生の因はあくまでも念仏のみである」というのが西山派の教義らしい。
……ヒジョーに申し訳ないのだが、それはどうにも僕には無理矢理な理論に思えた。いやいや結局は念仏以外の諸行を無理に念仏ということにして往生の因として認めとるやん、と。

そこでグルグル迷っていたところ、ネット上にこういう書き込みを見つけた。

鎮西派は二類各生説。つまり、正行である念仏による往生と、雑行である諸行による往生の二種類両方を認める。
但しこれは原則論で、実際は機根の問題から諸行では往生できないから、諸行を廃して念仏を立てる。
西山派は一類往生説。つまり、正行である念仏による往生一種類しか認めない。
しかし是は念仏を立てて諸行を廃するための説明で、いわゆる特殊名目の行門、観門、弘願門の観門から弘願に入った位、つまり安心決定すれば、実は諸行は念仏という仏徳全体の各々一部の徳を表すから、殊更に廃する必要はなく、逆に生きてくる、という。



つまり、鎮西派は二類往生だけど諸行は廃立で、西山派は一類往生だけど諸行が生きてくるから廃立しない。なるほどこれならと納得した。その宗派内の行者に限ってならば念仏のみをピュアに勧めているのはむしろ鎮西派の方ではないか。
そもそも法然仏教は、聖道門の諸行によって悟りを開ける才能・環境がある人はもちろんそれで良いけど、それができない人のための易行として念仏を勧めた。であるなら諸行でまったく往生できないとまでは言っていない。専修念仏以外の高僧、例えば玄奘三蔵、空海や最澄、臨済義玄や栄西や道元、一休等が成仏も往生もできてないとはとても思えない。

こうしてみると鎮西義は他宗も排撃しない、人に優しい教えだと言えるのではないか。
もっとも現実には、徳川家の権威でもって他宗の寺も浄土宗鎮西派に無理矢理改宗させられた例が多く、その寺々は看板を変えただけで元の宗派による祈祷は何も変えていないのでむしろ浄土宗鎮西派がなんでもありのごった煮宗派になってしまっているという事実はある。懐の深さと言ってもいいのかもしれないが、なにかしらそれでいいのかという気持ちは残る。
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