西から西へ

2020/5/24 | 投稿者: 鹿苑院

新日本プロレス所属時代の西村修は、よく全日本プロレスの興行に1シリーズフル参戦していた。
総合格闘技色を強めつつある当時の新日本よりも純プロレスの武藤全日本の方が西村のスタイルには合っており、のびのびと闘っていたのを覚えている。




ところで、源頼朝が髻に小さな観音像を入れて加護を祈っていたために石橋山の大敗からわずかな期間で関東一円を平定できたという話に触発されて、僕もバッグに忍ばせて持ち運べる小さな観音像が欲しくなり、千手観音様をお迎えした。
仏教に詳しい方なら「エーッ! あれほど浄土真宗に凝り固まっていた鹿苑院が!?」と驚くかもしれない。
浄土真宗は阿弥陀如来以外の神仏にすがってはならず、お守り的なものも迷信として排するからだ。御加護を願って千手観音像を持つということはまったく浄土真宗的ではないのだ。

僕を襲った大きな挫折は人生観を変えてしまった。そして僕のような宗教体質の人間にとっては人生観とは宗教観とほぼ同義語である。
浄土真宗では現世利益をほぼ説かない。求めることもしてはいけない。願っていいのは死後に極楽浄土に往生することのみである。
現世利益を求めるという行為について浄土真宗側の文章では「己の都合による自分勝手な現世利益を求めるのは煩悩のなせる業。そんなものに惑わされるな」と書かれていることが常であり、挫折を知らなかった僕はそれに頷いてもいた。

ただ、今の僕は思うのだ。このつらさ・悲しみから逃れたい、新しい幸せを与えてほしいと願うことはそんなに悪いことか、と。
お守りについても、お守り自体は気休めかもしれないがそのおかげで不安を和らげることができるならありがたいことではないか。お守りを持つことで勇気を持って難問に挑んだ結果、成功したら、それはもう立派な神仏の加護である。

そういう現世利益なら例えば観音菩薩や神社の神様に祈るのが一般的である。
浄土真宗では現世利益を取り扱わないというのなら、せめて「現世利益については他の仏様か神社にでも頼んでくれ」と言ってくれればそれでもいいのだが、原理的にはそれは半ば禁止されている。あくまでも祈りといえば阿弥陀如来に後生を願うことしかしてはいけないのだ。
……というか、法然上人は神社に参拝することはまったく差し支えないと『一百四十五箇条問答』で明言しているのに、法然教学を正統に受け継いだはずの浄土の真宗ではなぜ神社に参拝してはいけないことになっているのか不思議である。

浄土真宗の阿弥陀念仏の教義には長く親しんできたから愛着はある。後生についてはこれに勝るものは無いと今でも思う。だからこれとほぼ同じ教義を持ち、しかも現世利益についての祈りを容認してくれる宗派は……と考えた時、西山浄土宗という落とし所になった。
完全に改宗!……とまで踏み切るほどの決断はしていないので、それこそ新日本所属でありながら全日本のシリーズに参戦する西村のような立場になる。
家の宗派まで変えようとは言わないが個人の信仰としてはしばらく自分の心の置き所を西山浄土宗に変えてみて、お試し期間をやってみる。

ちなみに浄土真宗から西山浄土宗に改宗した著名人としては本多平八郎忠勝がいる。これを機に桑名にある墓所も訪ねてみたい。
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