忠勝の計らい

2018/4/8 | 投稿者: 鹿苑院

奥州相馬家は平将門の嫡流である。関ヶ原の戦に際しては石田三成に恩義があったため、西軍寄りの中立という立場をとった。ために改易(秋田に転封する佐竹家の家臣として1万石)を言い渡されるのだが、その撤回を求めて当主義胤の嫡男・利胤が江戸に出向いた。

折よく江戸には本多忠勝が来ており、騒ぎを聞きつけて家康に進言したのが、徳川家馬術師範2名と江戸城一周の競馬をさせ、利胤が勝てば許そうという提案である。この馬術師範が乗ったのはアラブ種の大型の馬。利胤の痩せ馬とは比ぶべくもない。

まだ江戸はあちこちで工事中だったから随所に穴が空いていた。特に穴が多いあたりに来たところで、審判を仰せつかった本多忠勝は空鉄砲を撃たせた。利胤の馬を大きく引き離して先に駆けていく馬術師範の馬は音に驚きつつも穴を跳び越えていったが、利胤の馬は穴に落ちてしまった。

その瞬間、勝負あり!を宣言した忠勝が家康に言うには、
「銃声が聞こえれば地形を利用して物陰に身を隠すのが武者の心得。気にせず突っ込んでいくようでは弾丸の餌食になるばかり。この勝負、利胤殿の勝ちでござる」

この忠勝の粋な計らいにより、相馬家は旧領安堵。さらには勝てそうにない者が勝って大番狂わせを起こすことを「大穴」という言葉が生まれた。
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