「付き合わない」というコミュニケーション

2016/4/22 | 投稿者: 鹿苑院

友達百人できるかな──というのは実際には小学校1年生でも難しい。学年が進んで個性がはっきりしてくれば尚更のことである。子供の頃、A君の家に遊びに行くと先客B君がいたので気まずく帰ってくると、よく親に「3人で遊べばいいじゃないの」と言われたが、A君とは友達でもB君とはそうではないというのはよくあることなのだ。子供なら無邪気にみんな仲良くできるだろうというのは大人の幻想に過ぎない。

「学校は勉強だけでなく社会性を学ぶ場でもある」とよく言われる。最近は社会性の方に比重が置かれすぎて勉強がおろそかにされているようにも思えるがそれはそれとして、この言葉にはケチをつける気はない。社会性、学校でおおいに学ぶべきである。
ただ、社会性を身に付けるというのはみんな仲良くすることとイコールではない。仲良くなれそうにない相手とは適切な距離をとってなるべく関わり合いにならないようにするのも立派なコミュニケーションの一手段である。

これは相手が外国人でも同じことで、とかく国際交流というと相手国の文化習慣を知ってひたすらにそれに迎合することが国際交流だと思っているやつが多いが、知った上で付き合いきれるものと付き合いきれないものを取捨選択して後者には付き合わないことを選ぶのも立派な国際交流のありかたである。
例えばユダヤ人が「パレスチナ人ってうざいよね」と言ってきたら、「ああ、あなたはそう思ってらっしゃるんですか。ふーん」とだけ聞き流せばよい。その場では一緒になってパレスチナ人の悪口を言って、次にパレスチナ人が来たら一緒にユダヤ人の悪口を言う──なんてのは国際交流でもなんでもない、ただのゲスな行いである。
同じ理由で、「日本人死ね」と何十年も叫び続けている国とも付き合う必要はない。最初の段落の例えで言えば、アメリカは日本とも韓国とも友達だが、日本と韓国は友達ではないしそうなる必要もない。
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