仁慈の矢

2013/9/21 | 投稿者: 鹿苑院

武田勝頼滅亡後、その家臣を見付け出しては見境なく処刑した織田信長に対し、徳川家康は好待遇で召し抱えたので精強な甲州兵が先を争って徳川軍に加わり、これがパワーアップに繋がったことは有名である。彼らに対して家康が語った言葉がある。
「オレは信玄公を尊敬していて、信玄公の正統な後継者は勝頼殿よりむしろオレだと自負しているくらいだ。だから武田家に仕えたのと同じ真心を持って我が家にも仕えて欲しい」
実際、晩年の家康は同盟していた信長について語ることはほとんど無く、むしろ敵であった信玄を讃える発言ばかりしていたという。

家老の石川数正が羽柴秀吉の下に出奔した後は信玄への傾倒はますます強くなり、まず軍制の漏洩を恐れて従来の方法からまるごと甲州流に変えた。戦闘時の掛け声が「エイエイエイエイ」だったのが武田軍では「エイ、トウトウトウ」だったのでそれに変えたというくらい徹底している。

そんな家康が一つだけ信玄のやり方に反対の意思を示し、採用しなかったことがある。武田軍では矢の軸と鏃(やじり)をわざと緩く繋げていた。これだと刺さった矢を抜こうとするとそこでとれてしまい、鏃だけは体内に残り続けるので長く敵を苦しめることができるからだ。
この話を武田旧臣から聞くと家康は不快な顔をし、「敵を苦しめるのは戦場だけでいい。余計なところでまで苦しめようとするのは名将の行いではない」と言い、徳川軍では固く繋げることを命じた。
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