中華版三英傑

2013/8/11 | 投稿者: 鹿苑院

唐の滅亡後、中国は小国が乱立する時代に突入する。いわゆる五代十国の時代である。その中で後周という国に英主が現れた。名を柴栄という。
この柴栄を織田信長、彼の家臣の趙匡胤を豊臣秀吉、その弟の趙匡義を徳川家康に例えることが多く、そう言われてみれば確かにピッタリでもはやそうとしか思えなくなる。

柴栄と信長が似ているところといえば、仏教への弾圧である。他宗教からの要請によるものではなく、経済・国家統制上の理由(柴栄は脱税・兵役逃れの防止、信長は一揆鎮圧・政治への介入阻止)でそれをやったところも似ている。なお、当時は銅が不足していたため、柴栄は銅の仏像を溶かしてこれに当てたが、それを諌めた家臣にこう答えている。「仏像は仏そのものじゃないし、もし本当の仏だったら衆生のためにその身を差し出すのを厭わないだろう」と。叡山焼討の際の信長の「光秀は知らぬらしい、あれは木と金で出来ておるのだ」という発言を思い出させるものがある。

柴栄が病で死ぬと、後を継いだのは7歳の子供だった。秀吉と違って趙匡胤には亡主の天下を簒奪する気は無かったのだが、彼が酔い潰れて寝ている間に兵たちが皇帝専用の黄色の衣を着せて無理矢理に擁立してしまった。簒奪の後は前政権の皇帝とその一族は殺されるのが普通だったが、匡胤はこれを行わず、貴族として厚遇している。彼は後に中華を統一して宋を建てるが、宋の滅亡までこの厚遇はずっと続いた。この一族に対してだけでなく、無駄な殺人を非常に嫌ったという点も秀吉(ただし羽柴時代までに限る)に似ている。

趙匡胤と弟の趙匡義は仲が良かったが、趙匡胤の死は謎に包まれている。病床にいた匡胤の見舞いに匡義が駆けつけた途端に死んでいるので、匡義が兄を毒殺したのではないかという噂も根強くあり、その確証は無いにせよ、匡胤には子がいるのに弟の匡義が帝位を継いでいること、その匡胤の子は匡義によって殺されていること等から考えてまったく荒唐無稽というわけでもない。匡胤を秀吉とすればその子は秀頼であり、これを殺して天下を握った匡義が家康というのはうなずける。ただし、匡義の子孫は後に断絶し、その後を継いだのは匡胤の子孫であり、この血統が宋の滅亡まで続いた。
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2013/8/12  9:30

投稿者:鹿苑院

宋の文化・芸術は長い中国の歴史の中でも最高ですが、朱子学だけは完全に蛇足ですね。あれだけはいけません。圧迫された民族が産み出した不思議ちゃん理論に過ぎないのですが、現代の日本においてさえ朱子学理論をふりかざす奴が多いから困ったものです。その意味で、日本人は無宗教というのはウソですね。朱熹が今の日本を見たら泣いて喜ぶでしょう。
たかだか数年早く生まれたというだけで敬うことを強制されるのは不可解そのものです。年上だから敬えと自分から言う奴にろくな奴はいませんしね。

2013/8/12  8:23

投稿者:tenjin95

> 管理人様

結局この後、北宋の仏教というのは、結構バランスの取れた状態で、文化的にも熟成し、良い時代になったので、その前と思えば、こやつが引き起こした破仏も多少は許してやっても良いかもしれません。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/

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