鳥取城から後楽園ホールへ

2013/6/23 | 投稿者: 鹿苑院

鳥取城は室町以来の名門・山名家の居城だったが、織田信長の勢力が中国地方にも伸びてきた時、織田方に付きたい山名豊国と毛利方に付きたい家臣たちとの間に対立が生じ、豊国が退去する。家臣たちは毛利家に対し、吉川姓の大将の派遣を願った。毛利家の山陰方面軍司令官は吉川元春なので、これ以上確かな人選は無い。これを聞いて自ら志願したのが吉川経家。

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自らの死を覚悟しての志願であったらしく、自分が討死した時のための首桶を持参して入城している。「三国志」に龐徳が関羽との決戦に際して棺を用意して出陣するシーンがあるが、あるいはこれに倣ったのかもしれない。

籠城戦は悲惨なものになった。羽柴秀吉の徹底した兵糧攻めにより鳥取城はたちまち飢餓に陥り、牛馬はおろか木の根、ねずみ、果ては死人の肉まで争って食うという有様。200日以上粘ったがついに惨状を見かねた経家は切腹開城を決意する。
秀吉としても経家を殺したくなく、むしろ山名の旧臣たちを首謀者として切腹させたかった。彼ら自身もそれを申し出たのだが、経家は、自分は信頼されて派遣されてきた大将だから責任を取らなければならないと頑強に主張し、栄養失調でフラフラのはずなのに気力を振り絞って見事に切腹する。

なお経家の子孫は鳥取藩池田家に仕えたのだが、安政年間に何かの事情で切腹したらしく、彼の7歳の息子はその切腹に立ち合い、武家の悲惨さに嫌気が差して江戸に上り出家した。
この人物の孫の顔を我々は数年前まで毎週日曜の夕方に見ていた。この人である。

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