武田武士道

2012/11/29 | 投稿者: 鹿苑院

天正10年に織田信長が甲州へ出陣した時の武田家の混乱ぶりほど酷いものはない。勝頼はせっかく造った新府城を自ら焼いてしまうし、信玄の姉婿・穴山梅雪は徳川家康に内通して武田崩壊のきっかけを作った張本人だし、信玄の弟・信廉は戦わずして逃亡したものの捕まって斬られている。
そんな中、武田一族で一人、武士の意地を貫いて徹底抗戦した男がいる。高遠城主・仁科五郎盛信。信玄の五男で勝頼の弟である。

高遠城を攻めたのは信長の嫡男・織田信忠。織田方5万に対して高遠方3千なのでまずは降伏勧告してみたが、あっさりと拒否された。
始まった戦闘は激戦になったが、いかんせん物量が違いすぎて、勝敗は最初から見えていたと言っていい。思う存分に戦った盛信は織田方に「お前たちが武運尽きて切腹する時の手本にせよ」と言い放って腹を切ったという。500名余りの家臣も共に討ち死にした。余談だがこのわずか数ヵ月後に織田信忠も父・信長と同じく明智光秀の謀叛に合い、本当に切腹している。

盛信の首は岐阜に送られ、長良川で晒されるが、胴体は彼を慕う領民が埋葬し、その地は五郎山と呼ばれている。
信州人にとっては武田家は侵略者なのであまり好意を持っていないらしいが、長野県歌「信濃の国」には彼が登場する。敵味方を超えて信州人を感服させる士道を彼が持っていた証と言っていい。ただし「信盛」という名になっているが。
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