大坂城今昔物語

2012/3/28 | 投稿者: 鹿苑院

司馬遼太郎さんはオレの好きな作家だが、彼の文章からはかなりの徳川嫌いが伝わってくるのは事実で、徳川贔屓のオレとしてはちょっとそれは言い過ぎだろうと感じることも時々ある。

少し前に読み終えた「大盗禅師」は面白かったが、その中にもやはりやや偏向していると思われる徳川嫌いの文がいくつかあった。その中で、明らかに論破できるものがあったのでここで指摘しておこうと思う。大坂城のことである。
なお、「おおさか」を「大」と表記するのは明治以降のことなので、本項では「大」に統一する。

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大坂夏の陣の時に大坂城は焼け落ちたが、その後に徳川家の手によって再建され、二条城と並んで幕府の西国支配の拠点となっている。そのことは事実だが、その徳川大坂城について司馬さんは、豊臣大坂城とは比べ物にならない「田舎城に毛が生えた程度」と記している。これが間違いなのだ。

徳川家による大坂城再建工事はまず豊臣大坂城の遺構をすべて埋め立てることから始まった。豊臣大坂城天守の石垣の上面までが埋まるように土で埋め、その周りを新しく造った石垣で固めている。その上で天守や櫓などの諸建造物を建てている。完成した徳川大坂城の総床面積と天守の高さは、実は豊臣大坂城よりも大きい。ただし、もし司馬さんに一歩譲るならば、城郭全体の敷地面積は1/4ほどになった(しかしそれでも「田舎城に毛が生えた程度」ではない)。

この徳川大坂城の天守は4代将軍家綱の時代に落雷で焼け、以後は江戸城同様に「天守の無い城」になる。幕末の鳥羽伏見の戦では旧幕軍の本営になるが、敗戦と徳川慶喜の脱出、軍の撤退の時に失火で他の建造物もほとんどが焼けた。

昭和になってやっと大坂城の再建がされるが、大阪市民は徳川大坂城の再建を望まず、豊臣大坂城の再建を望んだので、大坂夏の陣図屏風などから推測できる姿で豊臣大坂城が再建された。石垣や城全体の縄張りなどは徳川大坂城のそれなのに、その上に鉄筋コンクリートの豊臣大坂城を建てたという、実は歴史上に存在しなかった姿が現在の大坂城の姿である。ついでに言えば天守などは位置そのものが既に違う。現在見られる大坂城はそういう、実は「変な大坂城」なのだが、すでにそれ相応の風格と威厳を持って上町台地に聳え立っているので、特に文句を言う気はない。あれはあれで、豊臣大坂城でも徳川大坂城でもない、「昭和に建造された第三の大坂城」という認識で受け入れればいい。時間が経てば昭和だって歴史の一部になるのは当たり前だから。
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