秀頼は誰の子?

2011/10/29 | 投稿者: 鹿苑院

豊臣秀頼が誰の子なのかということは昔から様々な憶測を呼んできた。実父が豊臣秀吉ではないとすると大野治長説が最も広く囁かれているが、他に石田三成説や名古屋山三郎説もある。

しかし、私の意見は秀頼の実父は豊臣秀吉本人に紛れもないと思う。
そもそも秀吉の子ではないとする説が出てきたのにはいくつか根拠があって、

1.秀頼は巨漢であって小柄な秀吉に似ていない。
2.秀吉は子に恵まれなかったのに淀殿だけ妊娠したのはおかしい。
3.大野治長は最期まで秀頼を裏切らず一緒に死んでいる。

ということが挙げられているが、1つずつ論破していこう。

1はよく挙げられる話だが、実はよく考えるとおかしな話だ。子が必ずしも父親に似ると決まったものだろうか。隔世遺伝ということもあり、秀頼の母方の祖父に当たる浅井長政は巨漢であった。巨漢なのは彼に似たのだと考えれば説明は付くし、逆に大野治長や石田三成がそこまでの巨漢であったという話は聞いたことがない。そもそも秀吉が小柄だったのも遺伝的なものだったのかどうか。周知の通り秀吉は貧しい農民の出身であり、小柄なのは成長期に充分な栄養を摂れなかったからで遺伝子のせいではないという可能性もある。
2は確かにある程度の説得力がある話で、あれだけ女好きだった秀吉になかなか子が出来なかったのは不思議ではある。ただ、秀吉は長浜城主時代に早世したが石松丸秀勝という実子を設けており、「種なし」ではない。
3は親子の情ゆえに秀頼を裏切ることが出来ず最期まで付き従ったのだというのだが、これに至っては何をか言わんやというほどに馬鹿馬鹿しい話であり、こんなものは根拠にならないことはよく考えればわかるだろう。忠義な家臣はみんな主君の母親と不倫したが故の忠義だとでもいうのか。大野治長を愚弄するにも程があるし、当時の状況を考えてみれば豊臣家の上層幹部として反徳川の急先鋒だった治長が降伏したところで殺されるのは目に見えている。逃げても全国指名手配でやはり無駄だし、そんな無様な死に方をして汚名を着るくらいなら潔く主君と最期を共にしようというのは武士の考え方として自然である。

結局のところ、秀頼の実父を秀吉以外に求めようというのは淀殿を姦婦に貶めることで悪役に仕立てた徳川幕府のプロパガンダの後遺症に過ぎない。なるほど秀頼が秀吉の子でなく大野治長や石田三成の子だとすれば、これを攻め滅ぼしても徳川にとっては「主家殺し」ではなくなり、悪辣な印象は薄らぐ。そういう背景を考えると、やはりこれは「意図を持って作られた話」という結論が出てくると思うのだがどうだろう。
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