拈華微笑と密教

2011/1/5 | 投稿者: 鹿苑院

ある日、釈迦が手に持った花を黙って拈ったことがある。満座の弟子たちは誰もその行為の意味がわからなかったが、ひとり大迦葉(マハーカッサパ)のみが釈迦の真意を理解し、にこりと微笑んだという。この瞬間、奥義を言葉で説明できず以心伝心によって伝えるしかない教え、すなわち禅宗が生まれた。

禅宗というのはまあ一般には顕教に分類されるが、「奥義を言葉で説明できない」という点で密教のテイストがなくもない。日本の禅の先駆者である栄西禅師が天台密教の高僧でもあったことと関連があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
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2011/1/12  23:39

投稿者:鹿苑院

法然上人や親鸞聖人の専修念仏においても、他宗他行がダメだと言っているわけではないです。むしろ、聖道門は立派すぎて我々凡夫には無理というスタンスで易行たる称名念仏をするわけで、決して他行を貶めるものではないです。
ただ、おっしゃるとおり、信教の自由の時代には万人に当てはめることは難しいでしょうね。

2011/1/12  5:21

投稿者:tenjin95

> 管理人様

そうです。そのように、他宗派の教義や修行体系を否定した「例」はございます。ところが、「それが真理か?」といわれれば、全くその根拠はありません。よって、それを今更に、我々が聞く必要は無いわけです。無論、それを「真理だ」と思いたい人は、そういう信念体系を持っていれば良いわけですが、それが万人に当てはまるという主張が可能か?といえば、「信教の自由」を謳歌出来る時代にあっては、全く不当であると言って良いわけです。

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2011/1/9  22:16

投稿者:鹿苑院

天台大師も晩年には阿弥陀如来に帰依したそうですね。

さて、
>誰が、「1人一宗派」「1人一教義」なんて決めたんでしょうか?
についてですけど、敢えて挙げるなら弘法大師ではないでしょうか。「真言宗以外の者は東寺に立ち入ることを禁ず」というのがそれかもしれないと思います。
でも、はっきりと他行との兼修を否定したのは法然上人が最初でしょうね。

2011/1/9  17:03

投稿者:tenjin95

> 管理人様

そもそも、禅宗には教義が無いと申し上げましたが、それを突き詰めると、禅宗の人は、坐禅さえ忘れなければ、何をやっても良いという事になります。実際に、日本に於ける「専修念仏」は、念仏の中でも極端な教義ですが、本来「念仏」というのは「坐禅」の時に行うものとされていました。よって、禅宗の祖師が、同時に浄土教の祖師であったというのは、中国では珍しい話ではありません。日本では更に、密教と習合した禅は普通のことでした。栄西禅師は、元々比叡山の僧であり、密教僧でした。彼は、禅宗の祖師でもあり、密教の祖師でもありました。ところで、逆にお聞きしたいのですが、誰が、「1人一宗派」「1人一教義」なんて決めたんでしょうか?拙僧は、禅宗の僧侶ですけど、同時に、専修念仏の学びも進め、今では、阿弥陀仏の救済を疑ったことはありません。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/

2011/1/5  23:31

投稿者:鹿苑院

さっそくのコメントありがとうございます。トラックバック拝見しました。
特定の教義がないので「禅宗だから○○」という定義自体が不当というのは目から鱗でした。なるほど、密教的な人もいれば非密教的な人もいるわけですね。栄西禅師は密教的という理解で良いでしょうか。

2011/1/5  23:19

投稿者:tenjin95

> 管理人様

ここから、禅宗には「密語」という言葉が生まれました。それは、特定の人にだけ伝えられるような、「秘密の教え」があるのではないか?という公案です。我々は、「特定の教義」を持ちませんので、「禅宗だから○○」という定義自体が不当です。よって、密教的な人もいますし、非密教的な人もいます。道元禅師は、「密語」を「秘密の言葉」と解釈することを否定し、「仏法に親密な言葉」だとしました。『正法眼蔵』「密語」巻をご覧ください。

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