2020/11/19 | 投稿者: 鹿苑院

明智光秀の妹または義妹に御ツマキ殿という女性がいたようである。
興福寺と東大寺の諍いを仲裁するよう信長に頼んでいたり、公卿が信長に献上品を出す時に彼女にも帯をあげたりしていることから、なかなかの地位にいた人らしい。

どう考えても「ツマキ」は「妻木」だろう。光秀の正室煕子の実家の姓である。であれば、煕子の妹と考えるのが自然である。
(どうしても光秀の実妹という説にこだわりたいなら、煕子と交換で妻木家に嫁いだ妹がいたとしたら「御ツマキ殿」という呼称になってもおかしくないが)。

煕子の妹といえばひとつのエピソードが思い浮かぶ。痘瘡で顔にあばたができた煕子の代わりに父が嫁がせたが、それに気が付いた光秀が断って約束通り煕子を嫁にもらったという話である。御ツマキ殿はその時の妹のことではないか?
そのエピソードでしか語られることがほとんどなかった彼女が、実は知られざる活躍をしていたと想像すると面白い。
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2020/11/17 | 投稿者: 鹿苑院

「ワールドプロレスリング」を毎週観ているが、ここ最近毎回のように見る光景がある。
バレットクラブのセコンド乱入→レフェリーが気を取られて乱入したセコンドの方を見ているか失神させられている間に反則三昧、のコンボである。

敢えて言おう。プロレスがヤラセくさくなるからそろそろこれはやめた方がいい。
スパイス的にごくたまにやるなら悪くないが、毎回毎回だと飽きてくるし、何より見え見えの茶番なのでプロレスの価値が下がる。
百歩譲ってもし、あれがわざとでなく本当に毎回レフェリーのレッドシューズ海野があさっての方向を見て反則を見逃していたり失神させられているのだとしたら、サブレフェリーを常設するとかレッドシューズ海野を不適任として降格させて他の人物をメインレフェリーに交代するとかの措置をするべきである(いや、本当に海野があんなマヌケなわけはないが)。

例えば、実は海野はバレットクラブに内通していて毎回わざと反則を見逃していたとかいう筋書きを作って、それをどこかのビッグマッチでどかんと表に出して観客の怒りを煽るならそれはそれで面白い趣向にはなるが。
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2020/11/4 | 投稿者: 鹿苑院

キメハラ、すなわち鬼滅の刃ハラスメントという新しい造語が情報番組で紹介された。その定義はかくのごとし。

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なるほど、確かに問題である。幸い僕の周りにはこういう人はいないが、いたらウザそうだ。

でも、ちょっと待ってくれ。これをキメハラと定義するのなら、ずっと昔からディズハラ(ディズニーハラスメント)、ジブハラ(ジブリハラスメント)が根強く存在していないか?
およそ男で、女からこれを受けた事がない奴はほとんどいないと言い切っていいと思う。いるとしたらその男自身もディズニーやジブリが好きでその話題に付き合うのが苦にならないケースだけだ。

マスコミだってキメハラを問題視しているのに、ディズハラ、ジブハラの存在にすら気付いていないという事はあるまい。知っているけどそれに関しては一言も言及しないのは問題にならないと思っているからでは無論ない。
巨大資本を敵に回してヤケドをしたくない。それだけの事である。中学生でもわかる理屈。
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2020/11/3 | 投稿者: 鹿苑院

これを書いた時から自分の中で燻っていた自力他力問題。
鎮西派の主張としては、「弥陀の本願という船に乗れば浄土という彼岸には必ず着けるけど、船乗り場まで足を運んだり乗船券を買ったりするぐらいはやらなきゃいけないんじゃないか」というもので、それもそれで一理ないわけではない。

この問題について、西山派祖・証空上人と鎮西三祖・良忠上人の書いた文をそれぞれ読んでみるとまったく真逆の主張をしていて、どちらも読むと「あー、そうだよな」と思わせる説得力があるので困る。いつまでも結論が出ない。

それで困っていたら、時宗宗祖・一遍上人の言葉に出会った。

「世の人おもへらく、自力他力を分別してわが体をもたせて、われ他力にすがり往生すべしと、云々。この義しからず。自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨てて唯一念仏になるを他力とはいふなり。」

「わが体をもたせて」、つまり自分の考えで自力とはこれだ、他力とはこれだと解釈してそれにすがろうとするのは初心者じみた事だと。そんな事ゴチャゴチャ考えんと念仏したらええんや!それが他力や!と前田日明ばりにバッサリ切り捨てている。快刀乱麻の鮮やかさ!
完敗である。でも気持ちいい。
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2020/10/23 | 投稿者: 鹿苑院

湛如上人は西本願寺16世法主である。寛保元年の彼の死は表向き、病死ということになっている。しかし、西本願寺の茶道指南を代々務める薮内流の記録には決して愉快ではない異説が記されている。

湛如上人が病臥していたのは事実である。
彼の奥方(本願寺では裏方という)は皇族の閑院宮家の出身であった。この裏方とその実家が、上人の病気平癒の祈祷をした。
困ったのは本願寺だ。浄土真宗は今でも神祇不拝、祈祷の否定を頑なにしており、わずか十年ばかり前にも築地本願寺の参拝記念ノートに願い事ばかり書かれているので真宗にふさわしくないと撤去したぐらいに現世の祈りというものを排除している。

ここに法霖という人物が登場する。能化というから今で言えば龍谷大学の学長だと思えばよろしい。彼が湛如上人にこう進言した。
「本願寺の親玉が祈祷で病気が治ったんでは示しがつかない。病気が治る前に自害なされよ」
これが湛如上人の死の真相だという。
法霖が非道な人間でない証拠には、彼も身辺の事を片付けてから責任を取って自害している。彼もまた真宗の法義に命を懸けた人物だったのだ。

さて、この事件をどう読むか。
今年の3月以前だったら僕は「本願寺に嫁いできておいて真宗のなんたるかを知らない嫁はんの迷信深さが悪い」という感想を持っただろう。
しかし、重心の70%ほどを浄土宗に移して、いわば真宗を外から見れるようになってみると、「家族の病気が治ってほしいという、人間として最も素朴な願い事さえそんな形で拒絶しなければならない宗派には何か問題があるのではないか?」と思える。
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2020/10/15 | 投稿者: 鹿苑院

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先日参拝した谷汲山華厳寺にあった立て札。
禅宗というのは自力仏教の極みだと思っていたが、道元禅師のこの言葉は浄土宗西山派及び浄土真宗の全分他力の匂いがする。
道元禅師は西山証空上人の義弟であり親鸞聖人の従兄弟である。その血筋がそうさせるのかもしれない。
とまれ、禅の中にも他力を頼む心があることを知り、何故だかホッと安心した気持ちになった。
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2020/10/8 | 投稿者: 鹿苑院

法然上人は唐の僧・善導大師の著書によって自らの教えを確立したため、彼を師と仰いでいた。
ある日、法然上人の夢に善導大師が現れ、「あなたの勧める念仏は正解なので、私が証人になりに来ましたよ」と言った。善導大師は法然上人より500年前の人だが、この師弟は夢の中で対面を果たしたのである。

僕にも直接会ったことはないが師と仰ぐ人がいる。週刊ファイト元編集長・井上義啓氏。彼にかかるとプロレス記事は文学になってしまう。その重厚な文体に僕は惹かれた。
読者から電話があると、喫茶店で待ち合わせして何時間も語る「喫茶店トーク」が名物だった。年齢的・地理的制約で僕は喫茶店トークの恩恵にあずかることはできなかったが。

夢の中で僕は、I編集長が行き着けだという喫茶店を訪ね、店員に写真を見せて「この人を知っていますか?」と聞いてみた。
ああ会いたいんですか、という感じであっさりとI編集長が夢に出てきてくれた。マネージャーなのか中高年の女性も一人いてあれこれ仲介してくれた。
現実の喫茶店トークのように深い話にはならず、雑談しただけだったがそれでも僕には貴重な楽しい夢だった。
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2020/9/17 | 投稿者: 鹿苑院

6月に録画したまま放置していた「インディ・ジョーンズ3」を見た。
面白かった。それだけであって、特に見た後で考えさせられる深いテーマというのはないのだけど、それはそれでいい。
難しいことを考えずに、淀川長治ばりに「愉快でしたね、痛快でしたね」としか感想が出てこない映画もたまには悪くない。

それでは、さよなら、さよなら、さよなら。
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2020/9/13 | 投稿者: 鹿苑院




金貸しですら声高に愛を唱える世の中である。事程左様に「愛は素晴らしいもの」というのが定理を通り越してもはや公理になっている。

「仏教では愛は地球を救わない」という法話を読んだことがある。仏教においては愛とは「渇愛」であり執着であり、立派な煩悩の一つだからだ。
「あなたを愛する」というのは裏返せば「あなた以外は愛さない」ということであり、そこに差別が生まれる。

「愛は素晴らしいもの」という思想は元をただせばキリスト教の教義に過ぎない。
昭和の敗戦以来、GHQの洗脳にこの国は曝され続けてきたために、日本の長い歴史から見ればまったく新奇な思想である「愛は素晴らしいもの」というのがほぼ公理として扱われるようになった。
別にこの公理に疑いを差し挟まずに鈍感に生きていてもいいのだが、こういう事を知っておくとまた新しい視点から物事を見ることができる。
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2020/8/29 | 投稿者: 鹿苑院

近頃はどこからもお呼びが掛からないので、一昨日の休日は一日中浄土教の勉強をしていた。偉くもないし立派でもない。ただ楽しくてやっているだけだから。

さて、鎮西派の二祖・聖光房弁長上人の思想を調べていたら、こんな言葉が出てきた。

「他力とは全く他力を馮み 一分自力無しといふこと、道理しかるべからず」

ざらり。ざらり。
う〜む、受け入れにくい論である。

西山派および真宗では他力100%の教えだが、鎮西派ではちょっとは自力修行もしろと言っているわけだ。その自力修行とは具体的に何かと問われたら、とにかくたくさん念仏を回数勝負で唱えまくれという「多念」である。
法然上人は一日に6万回念仏を唱えていたという。鎮西派ではそれにならって何万回も念仏するのを良しとする。
さて、ここはどうだろう。
1回1秒としても6万回なら16時間半を超える。それだけで一日が終わってしまうではないか。それを毎日? 無理無理。

そもそも旧来の南都六宗・真言・天台に代わって念仏宗が広まったのは誰にでも実践できる易しい教えだからではなかったのか。
暇を持て余した金持ちならともかく(それでもしんどいが)、生業に忙しい庶民が一日のうち16時間半以上も念仏だけし続けるのはとても易しい教えとは言えない。普通に難行である。
である以上、少なくとも多念を教えのメインとして法然上人が人々に勧めたわけではおそらくあるまい。
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