阿部 彩『弱者の居場所がない社会−貧困・格差と社会的包摂』講談社(講談社現代新書)、2011年
(書評ではなく、引用による要約です orz)
阿部氏は、
『子どもの貧困−日本の不公平を考える』の後、子ども以外の貧困について書く予定でいた。そこへ震災があり、「社会的包摂」を中心として書かれた本。
震災の被害を受けた人々のなかでは、生活再建に大きな差が出てきている。自然災害の被害者のうちでも、もともと生活基盤の弱かった、社会的弱者が災害弱者となっている。このことから、自然災害の多い日本では、社会的弱者を減らすことを目指していかないと、自然災害のたびに、孤立死や自殺者が現れるのではないか。
私たちが認識しなければいけないのは、自然災害の影響はもちろん甚大であるものの、それを最終的な決定だとするのは、社会の仕組みであるということである。
そもそも、社会が、すべての人が尊厳をもって、安心して暮らせるような仕組みとなっておらず、すべての人の安全網(セーフティネット)を準備していないからこそ、自然災害は自然の摂理を超える猛威をふるうことになるのである。自然災害、たとえば津波や干ばつの死者数や被害者数が発展途上国では多くて、先進諸国の例をそれほどきかないのは、先進諸国の方がさまざまな社会制度が整っており、どのようなことがあっても人々の暮らしを守る手立てが講じられているからである。倒産による失業も、災害による失業も、それらが人々の暮らしに与える影響を最小限に抑える手立てという観点からは同じである。先進諸国の一員である我が国において、自然災害の被害者が多いことは恥ずべきことである。(p.11)
自然災害によるものであれ、経済情勢によるものであれ、社会の構成員が生活困難を抱えたときに、生活再建を支援する制度が整備されている国こそ、先進国と言われるべきだろう。阿部氏は、「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」という概念を用い、経済的な「貧困問題」だけでなく、個人と社会との関係や社会的な仕組みに着目して、展開している。
おカネがすべてではないが、今の日本では、おカネがないことはあらゆる生活場面で、生きづらさをもたらすことになる。おカネがないと、衣食住に困り、十分な医療や教育も受けられず、結婚もできない。日本は50年前に、「国民皆保険・皆年金」を達成したが、現在、その意義や重要性が再認識されるべきである。
国民年金を始めとする公的年金は、国が提供する社会保障のセーフティネット(安全網)の中でも最大のものである。この制度が保障するのは、もちろん、老後の年金が最大のものであるが、それだけではない。不慮の事故などで障害を負ったときの障害年金や、また、亡くなってしまった場合には遺族に遺族年金が支払われる。だからこそ、公的年金は、若い世代にとっても、「老後のことだ」との認識で無視することができない重要なセーフティネットなのである。(p.39)
また、病院や診療所が医療費負担を理由に、患者から治療や投薬を断られたりする、健康でないのに経済的理由から受診抑制が増えているなどの実態を提示している。
このように医療サービスを受けられるか否かが「懐具合」に左右されるという現実を見てくると、人々の健康が、その人が置かれた社会的地位によって異なるであろうということは容易に想像がつく。実際に、人々の社会経済的状況によって、死亡率、さまざまな疾患にかかる割合、主観的健康感など、健康状態に差があることは、多くの国で確認されている。(p.52)
「社会的包摂」と「社会的排除」とは、対立する概念である。「社会的排除」に近い概念として「貧困」「孤立」などがあげられるが、それは、「社会的排除」の一側面に過ぎない。より人間関係に依拠した考え方で、「つながり」「役割」「居場所」「人間の尊厳」といったキーワードが使われる。会社の経営者が一転してホームレスとなる場合があるかと思えば、他方、失業してもサポートを受け、生活再建へ歩むことができる人もいる。
顧みて私たちの生活を思ってみよう。
社会的孤立や社会サポートのデータで示したように、社会的排除の萌芽は誰でも抱えている。社会や家族といった「包摂」のサークルは、意外と脆い。おカネに困ったとき、病気になったとき、東日本大震災のような災害にあったときなど、本当に必要なときに、手を差し伸べてくれる人を、私たちは、どれほど持っているであろうか。
持っていたとしても、差し伸べられた手は、「会社」や「学校」、そして「家族」など、あるグループに所属しているというメンバーシップを前提としているのではないだろうか。(p.120)
社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生み出したのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的排除に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。(p.125)
自然災害等で困難な状況に陥っても、おカネや人脈に恵まれている人々は、社会資源を活用し、復旧への滑り出しも早い。一方、それらに恵まれない人々は、社会資源へアクセスすることすら難しく、支援の手が回らず、孤立を深めてしまう。このようにして、被災する以前からあった格差は更に拡大してしまう。
震災の前までは、貧困や格差に対して何とかしなければいけないという世論が盛り上がっていた。それが、震災を機に、一気に論調が変わった。復興に必要な多大な財源を理由に、震災以前からの格差問題や貧困問題は棚上げされている。
しかし、災害は誰をも均等に襲うものの、それに対処する力は災害前から蓄えていた余力によって異なる。社会的弱者は、そのまま災害弱者なのである。格差や包摂の視点が抜けたまま、やれ橋だ、港だ、道路だと、やみくもに「復興」の道を走ると、格差がどんどん悪化した1980年代以降の社会構造を再構築するだけである。(p.158)
社会保険、公的扶助、就労支援の3つの柱からなる、現行の社会保障制度では、現代の貧困や社会的排除に対応しきれない。非正規雇用者を中心とするワーキング・プアの問題などは、就労しているのに、「貧困」なのだから。そこで阿部氏は、ベーシック・インカムやユニバーサルな視点を持った公的制度を強調する。
現代社会においては、多くの人が労働市場における就労を活動の中心としていることを考えると、労働市場におけるユニバーサル・デザインが達成されない限り、社会のユニバーサル・デザイン化はあり得ないであろう。すなわち、どのような人であっても、「居場所」「役割」「承認」の形態としての「就労」の選択肢が提示されなければならない。そして、その労働は、「生きがい」を感じる尊厳のあるものでなければならない。(p.185)
これまでの議論を繰り返すが、「お情け」による公的扶助は必ずしも社会的包摂を意味しない。生活保護の受給者が社会的排除の傾向にあることは、政府も認識しており、さまざまな自立支援プログラムが生活保護に加えられるようになったが、まだまだその規模は小さい。
いちばんの問題は、生活保護の出口として、現在の労働市場における「就労」しか選択肢がなく、その就労が、必ずしも、その人の存在価値を発揮できるような、尊厳を持っていきいきと働くことができる仕事ではないことにある。無理をして就労しても、本当の社会的包摂は望めない。理想論に聞こえるであろうが、あえて言う。彼らが活躍できる就労を作り出すことができる労働市場への改革が必要なのである。
同様に、被災地の復興についても、被災地で特に厳しい状況に置かれた人々が活躍できるか否かを、最大のポイントとするべきではないだろうか。(p.203)
内閣府のサイトで、平成24年度の白書(高齢者白書、障害者白書、子ども・若者白書、子ども・子育て白書、男女共同参画白書等)が公開されたので、せっせとダウンロードしています。

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