3月21日は、バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月21日〜1750年7月28日)生誕の日。そこで、以前、HTMLで趣味のページを作っていた時に掲載していた文章を発掘して掲載します。バロック音楽を追っかけ始めた頃、「ブランデンブルク協奏曲集」のCDを借りてきたら、解説書に興味深い記事が載っていたので、コラム風にまとめてみたものです。
「ブランデンブルク協奏曲集」の頃のヨハン・セバスティアン・バッハ
−「孟母三遷」ならぬ、「バッハ七遷」−
孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教え[劉向、列女伝]
孟子の母が、その居所を最初は墓所の近くに、次に市の近くに、最後に学校の近くにと三度遷しかえて、孟子の教育のためにはかった故事。(『広辞苑 第二版』)
「ブランデンブルク協奏曲」の本来の題名は、「Six Concerts Avec plusieurs Instruments (いくつかの楽器を用いた6曲の協奏曲)」、自筆の原稿の表紙に、そう書いてあるそうです。 1721年に、バッハさんが自筆譜をベルリン近郊のブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒ伯爵に献呈したことから、現在では、こう呼ばれるようになりました。 それでは、どうして、これらの曲が伯爵に献呈されることになったかというと...
(協奏曲集の表紙裏に書かれた「献呈の辞」の一部を引用すると)
「(省略)..お別れの際に、私どもが作曲いたしましたいくつかの曲を殿下に送るべしなる名誉あるご用命を受け賜りました。..(省略)..最後に、今後も殿下が私どもに対する変わらぬ御好意をおもち続け下さいますよう、また、殿下の御尊厳にふさわしい機会や殿下にお仕え申し上げるにふさわしい機会がございましたら、私どもをお使いくださること以上の心の喜びはございませぬことを御確信くださいますよう、つつましくお願い申し上げます。..(省略)」
数年前に御前演奏したときのお約束を果たすべく、これらの曲をお送りします、という言葉とともに、よろしかったら、
自分を雇ってください、という言葉がみられます。
「ブランデンブルク協奏曲」は、6曲の協奏曲集ですが、それぞれ別々に作曲し、辺境伯へ献呈する直前に最終的な清書がされたと考えられています。 そのなかには、辺境伯に会う以前に作ってあったものを書き直したものもあったようです。 また、辺境伯の宮廷楽団では実演不可能なパートを持つ曲も含まれています。 これは、バッハさんが気に入った曲をテキトーにまとめて送ったのでしょうか?
当時の辺境伯はブランデンブルク選帝侯(ドイツの北半分を所領としていた)の息子でベルリン近郊の領地と都会のベルリンとを往復していましたし、ハルバーシュタット大聖堂とも深い関係であったことから、バッハさんは、辺境伯の口添えでベルリンあたりに就職先が見つからないだろうか、と思っていたのかもしれません。
というのも、このとき、記録が残っているだけでも、既に6回転職しています。 1703年、ヴァイマルの宮廷楽師に就職するも4ヵ月後に、アルンシュタットのオルガン奏者へ、1707年ミュールハウゼン、翌08年ヴァイマルでそれぞれオルガン奏者、1714年ヴァイマルで楽師長、17年ケーテンで宮廷楽長、そして、「ブランデンブルク協奏曲」後の1723年にライプツィヒでトーマス・カントル。 しかも、バッハさんのほうから求職の打診をしています。 どうして、こんなに転職する必要があったのでしょうか?
バッハさんのお父さんは、アイゼナハの町楽師兼宮廷楽師でした。 職人や徒弟が住み込んでいる「職人」としての楽師の家でした。 宮廷楽師は、宮廷に雇われて仕事をしているので、その職務には「職務規定」があり、その範囲を超えて、作曲や演奏をすることは許されていませんでした。 たとえば、カンタータを作曲、演奏するには、楽師長にならなければなりませんでした。 バッハさんが、自分のやりたい音楽を自由にやるには、どうしてもそれなりの地位へ昇進しなければなりませんでした。
バッハさんは、辺境伯へ献呈する前年1720年に奥さんを亡くしています。 21年12月には、アンナ・マグダレーナさんと再婚するのですが、辺境伯への献呈を準備していた頃は、子沢山のバッハさんが、男手一つで子育てに忙しい思いをしていた頃です。 そして、上の息子たち(長男は1710年生まれ、次男は1714年生まれ)は、そろそろ上の学校について考えなければならない年頃。 バッハさんは、ご自分が大学で学ばなかったために、やりたいことをやるために転職や昇進で苦労してきたことを思い、子どもには、自分と同じような苦労をしなくてすむよう、きちんとした教育を受けさせたい、高い教育の受けられる都市に移りたい、子どもに教育を受けさせられる安定した収入を得たい、と願っていたようです。 そのためには、都会の侯爵や教会関係者に、自分の才能と実力を認めてもらわなければならないのでした。 そこで、わざと難易度の高いパート(そのパートはもちろん、バッハさんが担当するのでしょう)を含めた曲や、伯爵や侯爵、あるいは、その夫人が演奏できる難易度の低いパートを含めた曲、あるいは、宮廷にふさわしい舞踏的要素を含む曲などを取り混ぜて披露する必要がありました。
実際には、ベルリンへ行く機会は訪れませんでしたが、2年後には、ケーテンよりは、はるかに都会のライプツィヒへ音楽監督兼トーマス学校カントルとして招聘されるのでした。
参考文献
『バッハ全集 第14巻 協奏曲、管弦楽曲』小学館、1995 より
小林義武「ブランデンブルク協奏曲の成立について」
三宅幸夫「バッハの生涯 − 芸術家の自我、創作の自由」
同巻CDには、
ラインハルト・ゲーベル指揮、ムジカ・アンティクヮ・ケルンによる、「ブランデンブルク協奏曲」第1番〜第6番
クリストファー・ホグウッド指揮、エンシェント室内管弦楽団による、第1番、第5番(初期稿版) が収録されています。

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