まず、入滅の場面を別の書籍から引用します。
その前から下痢をしていた世尊はアーナンダに助けられて、途中で休みながら、クシナガラに着いた。クシナガラは現在のウッタルプラデシ州のゴラクプルの東六十五キロの地点にあるカシア村であると推定されている。
その当時はマルラ人の住む寒村であった。世尊はその村はずれにあるサーラ樹の林の中で、二本の樹のあいだに北に枕を置いた寝床を設けさせ、右脇を下に両脚を重ねて身を横たえた。
最後の夜は急を聞いて駆けつけたマルラ人たちの挨拶を受け、なおも弟子たちに説法を続けた。そのあいだにスバドラという修行者がたずねてきて教えを受け、世尊の最後の弟子となった。
つぎに、世尊は弟子たちを呼び集め、仏陀なり、法なり、教団なり、道なりについての疑問のあるものは申しでるようにと言われるが、誰ひとり質問するものはいない。疑問がないことを確かめた時に、世尊は弟子たちに向かって次のように言われた−
「では、修行者たちよ。汝たちに告げる。もろもろの現象は移ろいゆく。怠らず努めるがよい。」
実にこれが世尊の最後の言葉であった。世尊はそれから禅定に入り、そのまま完全なネハンに入ってしまわれた。まだ悟りきっていない弟子たちは号泣し、すでに悟っている弟子たちは無常を観じてじっとこらえていた。
それはインドの暦でカールッティカの月(太陽暦十一月)の満月の夜のことであった。中国の所伝では二月十五日という。紀元前四八〇年前後と推定される。
渡辺照宏『仏教 第二版』(岩波新書、1974)
29歳で出家した釈尊は、35歳のときに成道、以降45年間、各地を布教して歩き、80歳の高齢でその日を迎えました。 入滅の年代について、中村元氏は、紀元前383年としています。
では、明恵作『涅槃講式』の続き
第一に入滅の哀傷を顕(あらわ)すといっぱ、凡(およ)そ如来一代八十箇年、迦韋誕生(かいたんじょう) 伽耶成道(がやじょうどう) 鷲峰説法(じゅぶせっぽう) 双林入滅、皆(みな)大慈大悲より起(おこ)り、悉(ことごと)く善巧(ぜんぎょう)方便(ほうべん)より出でたり。歓戚(かんしゃく)の化儀(けぎ)区(まちまち)なりと雖(いえど)も、みな利生(りしょう)の縁に非(あら)ざること無し。然れども初生之我(しょしょうのが)当度脱三有苦(とうどだつさんぬく)の唱(となえ)には、火宅の諸子且(かつが)つ梵焼(ぼんじょう)の苦(くるしみ)を息(やす)めき。滅度の従今以後、無再見の告(つげ)には、苦海の溺子(できし)、倍(ますます)哀恋の涙(なんだ)に漂う。経に云うが如し。
この段落で大事な一句「初生之我当度脱三有苦」が難解で訳せません。
(拙訳)まず、入滅のかなしみを表わすならば、そもそも釈尊の80年の生涯において、ルンビニーでの生誕、ガヤーにおける成道、サールナートにおける最初の説法(初転法輪)、クシナガラにおける入滅は、いづれも大いなる慈悲の心から、衆生を救おうとして、導くためになされたこと。その教え導く方法は様々ではあるが、あらゆる衆生が、その利益(りやく)を受けていることに変わりはない。入滅後の俗世に生きるわたしたちは、ただ釈尊を恋い慕う涙にくれるばかり。経典の伝えるところによれば、次のようであったと...
仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告げたまわく。如来久しからずして後、十五日あって、当(まさ)に般涅槃すべし。その時に夜叉大将あり般遮羅(はんじゃら)と名づく。百万億の夜叉衆等と与(とも)に、同時に声を挙げて悲泣して、涙(なんだ)を雨(ふ)る手をもって、涙を収めて、偈(げ)を説いて言(もう)さく。 世尊金色光明の身(しん)。功徳荘厳満月(まんがつ)の面(おもて)。眉間白毫(びゃくごう)殊特(しゅどく)の相。我(われ)今最後に帰命(きみょう)して、礼したてまつる と。諸天八部の悲泣雨涙(うるい)も、亦復(またまた)もってかくの如し。 先だって涅槃必定の告(つげ)を聞くに、大衆(だいしゅ)追恋の苦(くるしみ)に堪えざりき。況(いおう)や居諸(きしょ)屡(しばしば)転じ、三五(さんご)の運数已(すで)に迫(せま)っし時、如来も哀恋の粧(よそおい)を示し、大衆も最後の思(おもい)を作(な)しき。その中心(ちゅうじん)の悲歎何物(なにもの)をか喩(たと)えと為(せ)んや。
仏教以前のインドにおいて、悪鬼神だった夜叉や阿修羅は、護法善神(仏法を守護する神)として仏教に取り入れられた。
(拙訳)釈尊は、弟子の阿難(アーナンダ)に「15日後に涅槃に入るであろう。」と告げた。それを聞きつけた、般遮羅と呼ばれる鬼が、他の多勢の鬼どもと声をあげて嘆き悲しんだ。そして、涙が枯れると、「今後は、仏法のために、この身を捧げ、礼拝します」と言って、守護神となった。涅槃の時が定められたと聞くにつれ、多くの修行僧が、悲しみにくれていた。そうこうするうちに、日が過ぎ、世尊の変化を感じ取った、修行僧の心中にも、最後の時へ思いが熱く湧き上がるのであった。
遂に則(すなわ)ち、力士(りきじ)生地娑羅林の間にして、面門(めんもん)の光を二月十五の朝(あした)に放って、最後の別(わかれ)を五十二類の耳に告ぐ。菩薩声聞(しょうもん)天龍八部一恒沙(いちごうじゃ)の大菩薩等を始(はじめ)とし無量数の蜂虫衆類(ぶちゅうしゅるい)を終(おわり)とす。八十恒沙の羅刹(らせつ)王は、可毘(かい)羅刹を上首とし、二十恒沙の師子(しし)王は、師子吼(ししく)王を上首とす。乃至(ないし)鳧鴈(ふがん)鴛鴦(えんおう)の族(やから)、水牛牛羊(すいごごよう)の輩(ともがら)、皆、光に触れ、音(こえ)を聞いて、各(おのおの)大苦悩を生(な)す。人天(にんでん)は金銀(こんごん)財宝を担い、禽獣は花茎樹葉を衙(ふく)んで、双樹の間に往詣し、如来の前(みまえ)に集会(しゅえ)す。悉く汗を流して満月(まんがつ)の尊容を瞻仰し、各(おのおの)涙を連ねて微妙(みみょう)の正法(しょうぼう)を聴聞す。その正法といっぱ所謂(いわゆる)、
声聞縁覚(えんがく)同じく一果に帰す。定性(じょうしょう)無性悉く一性あり。金剛宝蔵は、わが所有(しょう)。三点四徳は、わが所成なりと。
深義(じんぎ)を聞くに、悲喜相交(あいまじ)わり、遺訓(ゆいくん)と思うにも、追恋弥(いよいよ)倍(ま)す。
ここも難しい語句が多い。力士というと、金剛力士だが、違う?
恒沙は、恒河沙(ごうがしゃ)に同じ、ガンジス川の砂の意味で、数え切れないくらい無限の数量の例え。
師子は、獅子に同じ。
釈尊のお顔を満月に喩えているが、顔が丸いという意味ではなく、夜を明るく照らす月と、現世を生きる正しい道を示す姿とを重ね合わせたものでしょう。
ここでも、声聞縁覚同帰一果...の四句、難解で訳出不能。
(拙訳)その日の朝、娑羅の林の間から、この世の隅々にまで光が放たれた。すると、覚(さと)りを得た人から、まだ修行中の人、さらには、鳥獣や虫にいたるまで、皆、釈尊が涅槃に入られることを知って困惑した。人々は、財宝を手に、鳥獣は、花や小枝をくわえて、釈尊のもとへと集まった。皆、釈尊のお姿を仰ぎ見、真理の言葉に耳を傾けた。その言葉が、遺訓となるのだと思うと、さらに恋慕の情がつのるのであった。
面々(めんめん)に憂悲(うひ)の色を含み、声声(こえごえ)に苦悩の語(ことば)を唱う。諸天龍神の涙は、地に流れて河と成り、夜叉羅刹の息は、空に満ちて風に似たり。漸く中夜
に属(しょく)して、涅槃時到(ときいた)れり。満月の容(こおばせ)に哀恋の色を含み、青蓮(しょうれん)の眸(まなじり)に大悲の相を現ず。僧伽梨衣(そうがりえ)を却(しりぞ)け、紫金(しこん)の胸臆(くおく)を顕して、普く大衆に告げて言(のたま)わく。
我(われ)涅槃しなんと欲(おも)う。一切の天人(てんにん)大衆、当に深心(じんしん)に我が色身(しきしん)を見るべし と。
かくの如く三反(さんべん)告げ畢(おわ)って、即ち七宝師子の床(ゆか)より、虚空に上昇(のぼ)ること、高さ一多羅樹、一反告げて言(のたま)わく。
我涅槃しなんと欲(おも)う。汝等(なんじら)大衆、わが色身を見るべし と。
かくの如く廿四(にじゅうし)反、諸(もろもろ)の大衆に告ぐ。
我涅槃しなんと欲(おも)う。汝等(なんじら)大衆、我色身を見るべし。これを最後に見るとす。今夜見已(おわ)んなば、復(また)再び見ることなからん。
かくの如く諸の大衆に示し已(おわ)って、還(かえ)って僧伽梨衣(そうがりえ)を挙げて、常の如く所被(きなお)したもう。如来復(また)、諸の大衆に告げて言(のたま)わく。
我今(われいま)、遍身(へんじん)疼(ひいら)ぎ痛む。涅槃時到れり。
この語(ことば)を作(な)し已って、順逆超越して、諸の禅定に入る。禅定より起(た)ち已って、大衆のために妙法を説く。所謂(いわゆる)、
無明本際(むみょうほんざい)、性本解脱我今安住(しょうほんげだつがこんなんじゅう)、常寂滅光(じょうじゃくめっこう)、名大涅槃(みょうだいねはん) と。大衆に示し己って、遍身漸(ようや)く傾(かたぶ)き、右脇(うきょう)にしてすでに臥(ふ)す。頭(こうべ)北方を枕とし、足(みあし)は南方を指す。面(おもて)を西方に向い、後(うしろ)東方を背(そむ)けり。即ち第四禅定に入って、大涅槃に帰(き)したまいぬ。
青蓮(しょうれん)の眼(まなこ)閉じて、永(なが)く慈悲の微咲(みしょう)を止(や)め、丹菓(たんか)の唇(くちびる)黙(もだ)して、終(つい)に大梵(だいぼん)の哀声(あいせい)を絶ちき。
如来の眼は、青蓮にたとえられる。
僧伽梨衣は、僧侶の衣、袈裟(けさ)。
色身は、人間の肉体をともなった仏(ほとけ)。また、永遠普遍の真理を法身(ほっしん)という。
初夜:戌の刻(午後8時)、中夜:子の刻(深夜)、後夜:寅の刻(午前4時)。
禅定とは、「心を統一して瞑想し、真理を観察すること。」(ウィキペディア−禅定)
無明本際...の四句、難解で訳出不能。
(拙訳)集まったものたちは、それぞれに悲しみや苦悩の表情をあらわしていたが、やがて、深夜となり、涅槃に入られる時が来た。釈尊は、袈裟を払うと、弟子たちに告げた。
「これより涅槃に入る。わが身を見るのは今夜が最後である。以後、再び見ることはない。」
釈尊は、繰り返し弟子たちに告げると、その後、袈裟を身にまとい、禅定に入られた。禅定の後、弟子たちのために法(真理の言葉)を説かれ、それが終わると、頭を北、右脇を下にし、西を向いて横たわられ、そのまま涅槃に入られた。
この時に、漏尽(ろじん)の羅漢は、梵行已立(ぼんぎょういりゅう)の歓喜(かんぎ)を忘れ、登地の菩薩は、諸法無生の観智を捨(す)つ。密迹力士(みっしゃくりきじ)は、金剛杵を捨てて、天に叫び、大梵天王は、羅網幢(らもうどう)を投げて、地に倒(たう)る。八十恒沙の羅刹王は、舌を申(の)べて悶絶し、廿(にじゅう)恒沙の獅子王は、身を投げて吠え叫ぶ。鳧鴈(ふがん)鴛鴦(えんおう)の類(たぐい)も、皆悲(かなしみ)を懐(いだ)き、毒蛇悪蝎の族(やから)も、悉く愁(うれえ)を含みき。サン(俊の字のにんべんをけものへんにした字)虎猪鹿(さんこちょろく)蹄を交えて、ダン(口へんに敢)害を忘れ、ミ(けものへんに彌)猴ゴウ(敖の下に犬)犬(みごごうけん)項(うなじ)を舐(ねぶ)って、悲心を訪(とぶろ)う。
跋提河(ばっだいが)の浪の音、別離の歎(なげき)を催し、娑羅林の風の声も、哀恋の思(おもい)を勧む。凡そ大地(だいじ)震動し、大山(だいせん)崩裂(ぼうれつ)す。海水沸涌(ひゆ)し、江河(こうが)涸竭(こかつ)す。卉木叢林(かきそうりん)悉く憂悲(うひ)の声を出(いだ)し、山河大地(せんがだいじ)皆痛悩(つうのう)の語(ことば)を唱う。経に衆会(しゅえ)悲感の相を説いて云く。 或(あるい)は仏(ほとけ)に随って滅(めっ)する者あり。或は失心(しっしん)の者あり。或は身心戦(わなな)く者あり。或は互相(たがい)に手を執って、哽咽(こうえつ)して涙を流す者あり。或は常に胸をう(手へんに追)って、大きに叫ぶ者あり。或は手を挙げて、頭(こうべ)を拍(う)って、自ら髪を抜く者あり。或は遍体に血現れて、地に流れ灑(そそ)く者あり。かくの如くの異類の殊音、一切大衆の哀声、普く一切世界に震(ふる)う。
良(まこと)におもんみれば、八苦火宅の中にも、忍び難きは別離の焔(ほのお)なり。三千の法王去りたまいぬ。熱悩何物をか喩(たとえ)とせんや。
仍(よ)って悲涙を拭い、愁歎を収めて、伽陀を唱え、礼拝を行ずべし。
我如初生之嬰児 失母不久必当死
世尊如何見放捨 独出三界受安楽
南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴
羅漢は阿羅漢の略。修行者を表わす語ですが、ここでは、修行中の釈尊の弟子を指す?
菩薩、如来に成ろうとする修行者を表わす語ですが、ここでは、既に覚りを得た釈尊の弟子を指す?
覚りを得た弟子も、無常の見地を忘れ、力士は、武器を投げ出し、歎き悲しんだ。獣も、噛み殺しあうことを忘れ、互いに寄り添って悲しんだ。クシナガラを流れる川の波の音も、娑羅の林を吹き渡る風の音にも悲しみが込められ、大地は揺れ、山は崩れ、海水は沸き立ち、川の流れは干上がり、悲しみをあらわした。
三千の法王は、釈尊のこと。 仏法の及ぶ範囲を仏国土といい、三千世界という。この場合の三千は、千の3乗。
建仁四年(二月二十日元久と改元)二月十五日には湯浅の石崎の宗景入道(湯浅宗重の長男)の館において涅槃会をおこなった。明恵は十一−二のころからこの日を特に慈父釈尊を追慕する日としてすごしてきたのであるが、弟子も交えた儀式としての涅槃会は、これよりさき糸野において初めておこない、一本の木を菩提樹とさだめ、瓦石をならべて金剛座になぞらえ、率都婆をたてて、摩竭提(まがだ)国伽耶(かや)城辺成仏宝塔と称し、一夜不断の釈迦宝号をとなえたという(『高山寺縁起』)。さて、湯浅の館での涅槃会では、昨年つくった『舎利講式』を、自ら涅槃像の前で読誦した。その第二段の「恋慕如来涅槃門」の「青蓮の眼(まなこ)はとぢてながく慈悲の微咲をとゞめ、丹菓の脣(くちびる)もだしてついに柔軟の哀声をたえにき」と、涅槃にはいる様子をのべたところにいたると、悲泣感動のあまり声をたち、息もとどまるかに見え、よむのをやめてしまった。そこで喜海をしてよみつづけしめたのであった(『(漢文)高山寺明恵上人行状』)。田中久夫『明恵』(吉川弘文館、1961)
湯浅宗重は明恵の母方の祖父だから、宗景は伯父。喜海(1178〜1251)は、明恵の弟子。この時は、建仁三年(1203)につくられた『舎利講式』一巻のみで涅槃会を行なったようで、その後、建保三年(1215)に、四座講式の形をとる四巻がつくられたそうです。
続きは、
涅槃講式(三)
四座講式の最初の記事は、
明恵と四座講式

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