梨木香歩さんの『水辺にて』(2006年刊) を読んだ。
筑摩書房: 水辺にて / 梨木 香歩
「水辺は、限りない「無」を感じさせる。」(p.12)
「水辺は不気味で恐ろしく、そして魅惑的だ。記憶の土地を飲み込むぐらい、ごくあたり前のようにも思えた。」(p.37)
「部分が全体を繋ぐこと。自分の生きている世界を、部分を、注意深く見つめること。自分がやがて還ってゆく世界を慈しむこと。
この、自分がそういう循環の一部であることをどれだけ心の深いレベルで納得できるか、ということがここしばらくの最大関心事の一つだった。」(p.212)
本書は、小説ではなく、
川や湖をカヤックで漕ぎ行くとき、また、車で水辺の街を訪れたとき、
目にした光景、湧き上がってきた思いや物語を綴った、随筆集です。
on the water / off the water というサブタイトルがついています。
on the water とは、梨木さん自身が、カヤックを漕いで水の上にあるときのことか?
off the water とは、水辺にいなくても、水辺にまつわる物語に思いをめぐらせること?
あるいは、水に端を発して、水以外の大きな循環へ思いをめぐらせること?
カヤックにのめり込んでいった梨木さんは、
カヤックで、水路をゆっくりと進む、あるいは、静かな湖面に漂って、
「ただただじっとして」周囲の景色や鳥のさえずりに心と身体を向けていきます。
エンジンも屋根もないカヤックで水の上に漕ぎ出し、
自然の空気とじかに接している感覚が、全編に漂っています。
また、梨木さんが、その感覚を「物語の予感」へとつなげていく様子も垣間見られ、
...梨木さんの小説は、こうやって、生まれてくるのか...
と思ったり、機会があったら、引用文献を読んでみたいと思いました。
人間は、自然の中に入ろうとするけれども、いつも自然が人間を受け入れてくれるわけではない。 人間が自然を変え、環境を整備できるなんて、思い上がりに過ぎないのだろう、と思う。
だから、人間は、ずっと自然に対して、畏敬の念を持ち続けてきたのだろう。
狭い島に山が聳え立つ日本の河川は、世界の中では、谷川、急流に相当する。 その流域に生活するために、古くから治水が行なわれ、日本の治水技術は、世界でもトップクラスではないだろうか。 それでも、治水には「終了」はあり得ない。
川や海が、陸地を削りとっていく営みは、人類誕生よりもはるか昔から続いているのであり、それは、火山の噴火や陸地の隆起・沈降といった、地球内部のエネルギーとも呼応した大きな動きなのだから、人間の治水如きで止めようがない。
時として災害と呼ばれたり、過去の爪あとのあるものは、奇観、景勝と呼ばれたりもするが、川や海の働きは変わっていないし、水の性質も変わることはない。 水というのは、川や海だけでなく、地下水、雲、氷河としても存在する。
人間が、橋を架け、ダムを造り、自分たちの生活圏を防御し、水の流れを制御しようとしても、自然は、時間をかけて、浸食し、自然の循環へ戻していってしまうだろう。 何ら意思を持たない無機質 H2O が、流れとなるとき、ひたすら、陸地を海面すれすれまで削っていく。 ただそれだけのこと。 でも、それは、一人の人間が感じとるには、あまりにも長い時間と大きな循環なのだ。
そうそう、わたしのハンドルネーム「三日月湖」も川の一生に思いを寄せて、選びました。 わたしも水辺に引き寄せられるけれど、「物語の予感」は感じないなぁ...

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