ねずみ小僧は1月のE.G.P.P.のテーマだったが、その時、高くて手に入らなかった(ネットでたしか、数千円の値段がついていた)河竹黙阿弥の世話物狂言(歌舞伎)脚本『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』が最近、岩波文庫でリクエスト復刊され600円で買えるようになりました。古書値もきっと下がるでしょう。
で、この時はうまく視野に入らなかったのですが、このような義賊ものは歌舞伎の演目では「白浪もの」と言われ、その異装と両性具有性にひとつの特徴がありそうです。弁天小僧を筆頭にしたセクシュアリティの混乱としてのこのような義賊ものの性の撹乱は、歌舞伎それ自体が男優が女を演じると言うホモソーシャルな約束事の上に成り立っている以上、両性具有的なホモ・セクシュアリティへいざなうと思われます。
なぜ、義賊(白浪)ものがこのような、ホモ・セクシュアリティを内在するのかを考えれば、おそらく歌舞伎の発祥や、出雲の阿国の異装といったものまでたどらなければならないでしょう。
ともかく、若衆があでやかな女物の着物をまとってシナをつくり往来を練り歩き、悪場所を梯子するといった風俗が江戸時代にはあり、それを「カブく」と称していたらしいのです。
これは、心情としては「昭和元禄」と言われた60年代後半に輩出したアーバン・トライバル(「賊」ならぬ「族」ですが)な連中が、ピーコック・ファッションで決めたり、汚らしい乞食ルックでいたりすることに通じるものがあると思うのです。ほとんど、女装に近い連中もいたのですから……。
しかし、この国では神話時代から異装や両性具有性は、存在します。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、そもそもクマソを退治した時、童子の装いで(まだ「日本童男(ヤマトヲグナ)」という名である)クマソの首長タケルの名をもらうのである。そして、その時、ヤマトタケルノミコトは女装して女人の中にまじっている。クマソの首長タケルはその中から容姿に優れたものとして、ヤマトタケルノミコトを選び「手を携えて、席を同(ともに)する」のです。
それは策略だとしても、このような征伐すべき少数民族(夷)の首長との結婚といった記述は、何をあらわしているのでしょう?
この国の平定、支配のパターンは敵のせん滅ではなく、同化政策にもとづくという説があります。血の混合によって、同化しアイディンティティを希薄化してしまうというものです。その過程の中で、独自の文化、独自の言語を奪い去ってしまうのです。これは、アイヌ民族へのこれまでの同化政策を考えてみれば納得がゆく説明ではあります(善悪の判断は今は別にして)。
この国の英雄伝説には、たとえば義経伝説もそうだが、女装や異装が不思議なくらいつきまといます。これは、おそらく宮中の儀式にまで影響を与えているものと思われます。
いわゆる古典文学も、このような視点からあらたなスポットを当てると、違った側面が見えてくるような気がします。
そう言えば、本年は『源氏物語』成立千年の企画があるようです。あらたな読み直しが出てくることを期待します。

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