「ファンタスティック・京都(2)――京都サンジェルマン・デュ・プレのカフェとして」
サブカル・トリビア
18日の朝方、つまりおまつり(「太陽と月のまつり」)初日だが、カントさんと、大阪のtomocoさんと再会する。カントさんは、昨日触れた「村八分」の初代(正確には二代目)ドラマーであったひとだ。ながく高円寺でアーティストとして活動していたが、現在大阪に居を移している。tomocoさんは、この1月レインドックスで開かれた「(つなみ被害支援)緊急ライブ」で、ボクや「ねたのよい」の受入先となってくれて仲良くなった美しき女性だ。ボクは「浪速の美女」と呼んでいる。これに、「ねたのよい」のメンバーを引き連れて、「進々堂」へ朝食をとりに行く。ここは、ボクらも60年代の末くらいから、ヒッチハイクで京都へ来た時は、必ず立ち寄った場所で「村八分」のチャー坊(京都出身)も好きな場所だったからカントさんも来ているはずだが、本人は覚えていなかったようだった。
「進々堂」のことは、昨年暮れの「凶区関西ツアー」の京都報告その4でも触れているから、自分の文章を引用して紹介に変えよう。
「それらの本を持ってその古書店から数歩のカフェ「進々堂」に入ったのだ。なにも変わっていなかった。看板、たたづまい、椅子、ワーズワースの詩の書かれた青銅製のプレートそして重量感のある一枚板の樫のテーブル(民芸運動の有名な木工家.黒田辰秋が製作したもの)、珈琲の味、パン。そう、あえて言えばウエイトレスが変わり、トイレが綺麗になっていたくらいだ。御亭主がパリに遊学されたとき通った(1930年代らしい)サンジェルマン・デュ・プレのカフェを作りたかったと言うカフェは、長い時間を経て重厚で、落ち着いたアウラを発散している。ここも、この国の中で歴史をもったカフェと誇れる場所のひとつだと思う。」
結論から言えば、この日行って正解だったのだ。午後からカントさんが、音の口開き、続いて「ねたのよい」という出演順で西部講堂での出演がひかえていたが、ここでのんびりとした時間を過ごしてよかった。なんとなれば、「進々堂」は翌19日から22日の「まつり」期間と同じ日程で臨時休業になっていたからだ。演奏が終わったら、トンボ帰りしなければならなかったドラムのIGGYにも、京都の思い出を残せたのが良かったと思う。もっともこの時は、ベースのNasは別便で到着のため、「進々堂」への同行はかなわなかったのだが……。
クロワッサン、昔の味のカフィ(珈琲)、ワーズワースの詩の刻印された青銅製のプレート、テーブル……また、何もかわってはいなかった。ここに来ると、不思議なことに音が聞こえるような気がする。BGMは一切ないにもかかわらず、この店の空気には懐かしい、そしてけっしてカビくさくはない昔の空気が流れているような気がしてならない。そして、そこには昔のヤセぎすの十代のボクもいる。かって、神田にカルチェラタンがあったように、京大周辺も催涙ガスのたちこめるカルチェラタンがあった。なにしろ、そこにはパルチザンも棲息していた。泣く子も黙る京大パルチザン。極左党派の爆弾闘争やゲリラ闘争に一定の理論的背景を与えた滝田修はたしか京大の助手でローザ・ルクセンブルグの研究者だった。小川プロのドキュメンタリー映画『パルチザン前史』(1969年・土本典昭監督作品)が、その活動と理論闘争を記録している。のち「赤衛軍」による朝霞基地襲撃自衛官刺殺事件への関与で長期間地下に潜伏し、逮捕、長期拘留ののち「滝田修解体」を出版して転向した人物である。
そして今出川通りをへだてた向かいには、このカフェ「進々堂」が、京都サンジェルマン・デュ・プレとして時代の変遷をくぐり抜けて立ち続けていたという訳だった。

0