「乙訓寺の牡丹と早良親王怨霊伝説(前編) @ 京都妖怪探訪(552)」
季節の風景
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どうも、こんにちは。
今回は、
『京都妖怪探訪』シリーズをやってきた者として、以前から一度訪れてみたい場所のひとつであり。また、京都が数多くの霊場魔所や妖怪伝説・伝承が遺される地となったきっかけともいうべき重要な場所を訪れます。
それが、今回訪れる
乙訓寺(おとくにでら)です。
桓武天皇がせっかく創った長岡京をわずか10年ほどで放棄し、平安京を創ったきっかけ、それが早良親王の怨霊騒動です。早良親王は桓武天皇の弟だった人物ですが、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に関与した疑いをかけられ、無実を訴えたにも関わらず無念の死を遂げ、その後怨霊となって祟り続けたと伝えられています。
その怨霊によるとされる災厄が続いて、恐れをなした桓武天皇は長岡京を放棄し、新たに平安京に遷都した。
なんと、千年の都・京都が創られるきっかけとなった怨霊騒動だったのですね。
その時、早良親王が幽閉されたというのが、牡丹の名所として有名なこの古刹なのです。
まずはいつものとおりアクセスから。
シリーズ前回の長岡天満宮・八条ヶ池から、文化センター通りを北へとしばらく(20〜30分ほど)歩きます。
ご覧の通り、途中に乙訓寺への案内板がいくつもあるので、わかりやすかったです。
阪急バス「薬師堂」停留所あたりの交差点から、今里通りを東へ。
今里通りは途中から大きな通りになりますが、その途中に乙訓寺への道があります。
住宅街の中の道を少し歩きますと、乙訓寺の門が見えてきます。
この寺の創建は、あの聖徳太子の時代だと伝えられています。
推古天皇の勅願を受けた聖徳太子が、継体天皇が「弟国宮(おとくにのみや)」を築いたこの地に十一面観音をご本尊とする寺を建立した。
寺伝では、これが乙訓寺の始まりとされています。
延暦3年(784年)桓武天皇は、平城京からこの地(長岡京)に遷都した際、京内七大寺の筆頭として大増築したとも伝えられていましたので、東寺は現在よりはるかに大規模で勢力のあった寺院だったと思われます。
山門から拝観料を払って中へ。
もう新緑の季節でしょうか。
乙訓寺は牡丹の名所としても有名ですが、訪れたのが4月後半。ちょうど牡丹の見頃だったようで、多くの牡丹が出迎えてくれました。
ここは地蔵堂ですね。
このお地蔵さんは、「日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)」と言われ、「限られた日(特定の日)に祈願すれば願い事が叶えられる」と言われています。
こういうお地蔵さんは、ここに限らず全国各地に存在するそうですが、ここの日限地蔵さんは何月何日に気がすればいいのか、まではわかりませんでした。
仏塔です。
多くの石仏がのせられている立派な仏塔ですが、夜中に見たら怖いかもしれません……。
この辺りにも、多くの牡丹が。
弘法大師像が立っています。
ここは「弘法大師ゆかりの寺」とされていますが、それはここが真言宗の寺院だからというだけではありません。
弘仁2年(811年)11月9日、嵯峨天皇から任命され、この寺の別当(統括管理の僧官)を空海本人が務めていたのと。
さらに、弘仁3年(812年)10月27日、天台宗の最澄、真言宗の空海という平安仏教の2大巨頭がここで会見し、空海が最澄に真言密教の法を伝授したとも伝えられています。
その後両者は決別してしまうそうですが、この2人の交流がその後の日本仏教に大きな影響を与えたのは間違いないようです。
さて、今回はここで一旦記事を切ります。
次回は、この古刹の怨霊伝説の寺としての顔も見ていきたいと思います。
勿論、牡丹の光景と共に。
今回はここまで。
また次回。
*乙訓寺へのアクセスについては
こちらを参照。
*大慈山乙訓寺のHP
http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/
*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
