前回でも言いましたとおり今回は、
『京洛八社集印めぐり』の7つ目、京都の御霊神社をとりあげます。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)という名の神社は、全国にいくつもあるそうですが、今回は京都の御霊神社‥‥またの名を上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)を今回はとりあげます。
ここはその名からもわかるように、いわゆる怨霊‥‥「歴史の敗者」として無念の死を遂げた人たちの魂を祀った神社のひとつです。
神社で売られていた「御霊神社由緒略記」によれば、主祭神として祭られているのは次の8名。
*崇道天皇(早良親王)
光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟。藤原種継暗殺事件に関わった容疑で廃太子され、無実を訴えるため絶食しが、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死。これは、息子の安殿親王(後の平城天皇)を皇位につけたかった桓武天皇による冤罪ではないか、と考えられている。
*井上内親王(いのえないしんのう)
光仁天皇の后。
前回でも少しとりあげたように、天皇を呪詛したという罪で息子の他戸親王と共に幽閉され、幽閉先で他戸親王と共に死亡。これは山部親王(後の桓武天皇)を皇位につけるため、藤原百川らによる陰謀とも考えられ、その死に関しても暗殺説が。
*他戸親王(おさべしんのう)
光仁天皇と井上内親王との子。井上内親王に同じ。
*藤原吉子(ふじわらのよしこ)
桓武天皇の夫人で、伊予親王の母。藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、謀反の疑いをかけられて幽閉され、伊予親王と共に自害。のちに二人の無罪が認められる。
*橘逸勢(たちばなのはやなり)
平安時代の官人で、空海・嵯峨天皇と共に「三筆」と称された文人。謀反の疑いをかけられ、拷問まで受けたあげくに、伊豆へ流罪に。その途中で病没。
*文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)
平安時代初期の官人。謀反の疑いをかけられ、伊豆国へ流刑になった。
*火雷神(菅原道真)
学問の神様でもある、京都で、日本で最も有名な怨霊の一人。まとめ記事は
こちら。
*吉備大臣(吉備真備)
遣唐使として、また政治家として有名な人物。陰陽道を日本に伝えた人物としても言われている。しかし右大臣にまで登りつめ、天寿を全うしたはずですが、何故他の七人の怨霊と共に祀られているのかは、謎。
729年の「長屋王の変」で自殺に追い込まれた吉備内親王(きびないしんのう)とする説もあるらしい。
神社に伝わる由緒書きによれば、794年の平安京遷都の際、桓武天皇の勅願により早良親王の霊を現在の地に祀ったのがその始まりだとされています。
その後、が合祀されました。
863年神泉苑にて、早良親王と井上内親王、他戸親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿の六名の霊を祀る神座を設け、疫病などの災厄を退散させるための御霊会(ごりょうえ)が行われ、彼らの霊も合祀されました。
その時代、疫病などの災厄が頻発し、それらは怨霊の仕業だと考えられたようです。こうした御霊会はのちに、
祇園祭の起源ともなりました。
後に、菅原道真と吉備真備の霊も加えられ、今日にまで至ります。
今回は、そんな場所を訪れてみました。
京都市営地下鉄の鞍馬口駅。
ここから烏丸通りをさらに下りますと、上御霊前通りと交わる交差点が見えてきます。
1階がコンビニのマンションと、洋品店があるのが目印です。
この小さな通りを東に向かいます。
少し行くと右手、道の南側に猿田彦神社がありました。
猿田彦とは、旅の安全の神様でもありました。
まずは、ここで道中の無事を祈り、通りをさらに東へ。
通りの東端に、目指す御霊神社の門が見えてきました。
目指す御霊神社門前の交差点の南西角に、焼菓子「からいた」の店・水田玉雲堂があります。
ここで売られている「からいた(唐板煎餅)」です。次の写真は、一袋680円で売られているものです。
この他にも、もっと大きなパックでも売られています。
神社に祀られている一人、吉備真備が唐から製法を伝えたとされるので、「からいた(唐板)」と呼ばれるそうです。
863年神泉苑における御霊会では神前に奉納され、その後は広く庶民にも与えられたそうです。
応仁の乱で御霊会は中断されましたが、その後この店の創業者によって境内に茶店が開かれ、古書に基づいた製法によって唐板煎餅が作られました。以来、御霊神社の名物として今日にまで至っています。
氏子さんたちも、七五三や年始年末のお参りの際にはお土産としても買われるそうです。
私も一袋買って食べてみましたが、いかにも昔ながらの伝統菓子という感じの、素朴でシンプルな甘さでした。
ここが御霊神社の門です。
両脇を守る狛犬・唐獅子と共に、堂々とした風格を漂わせています。
とても「歴史の敗者」を祀ってある神社とは思えない‥‥などと言えば失礼でしょうか?
今でも結構広いのですが、昔は境内の森を含めて現在の約2倍の面積があったそうです。
現在でも1万3000戸以上の氏子を擁し、その区域はおよそ230ヶ町の広域に及ぶという、大きな勢力を持った神社だそうです。
門の横にある石灯籠と、さらにその横に小さな石碑が建っています。
次の写真を撮ったのは夏頃であるため、石碑の文が手前の木に隠れてちょっと見えにくいかもしれませんが、「応仁の乱勃発地」と書かれてあります。
1467年、東軍の畠山政長が自邸を焼いてこの森に立てこもり、同族の畠山義就と戦います。これがその後10年以上も続き、京都を焦土と変え、戦国時代の幕開けともなった応仁の乱の起こりだと伝えられています。
平安京遷都の際にも天下を恐れさせた怨霊たちの眠る地で、そのさらに700年後にそこから天下を揺るがす大乱が起こった。何か因縁めいたものを感じてしまうのですが、どうでしょうか‥‥?
さて、ここから境内に入っていきますが、長くなりそうなのでここでいったん切ります。
今回はここまで。続きはまた次回に。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
